諌言のむつかしさ

特に筆不精な人は別として、手紙を書くことは、人生のたのしみの一つである。しかし、例外も無いことはない。何か失態をしでかして、やむを得ず書く詫び状などは、その一つであろう。
三蹟のひとりとして有名な藤原佐理は、芸術家肌で、きちょうめんな俗事が苦手であった。それで、しばしば詫び状を書く破目になる。因果なことに、その詫び状がすばらしい名筆なものだから、珍重されて後世ながく伝えられることになった。御物(皇室所蔵)の「離洛状」の、奔放をきわめた筆跡をほれぼれと鑑賞された方は多いと思う。あれは大宰府へ赴任する道中で、関白への挨拶をすっぽかして来てしまった失礼に気付いて、取りなしを頼んだ手紙である。それも本州の西端の赤間関まで来て、あわてて書いたものだから、うまい字を書こうなどという匠気は毛ほどもない。その一気の筆が千古の絶口問となったのだから、天才というものはこわい。
例外の手紙はまだある。やむにやまれぬ激情にかられ、利害損得をかえりみず筆を執った諌言の手紙も、それである。何といっても諌言の本場はお隣りの中国で、歴史上有名なものが、諸葛孔明の「出師の表」をはじめとして数多くある。君主や上司の逆鱗にふれる覚悟がなければ書けぬものだから、それらの文章には格調高い悲壮美がただよう。
菅原道真の「昭宜公に奉る書」は、わが国の諌言の手紙の代表的なものだと思う。それは、平安時代の政府役人のハンドブックである『政事要略』という書物に入っている。昭宣公は時の権力者藤原基経のことで、基経を諌める手紙を書いた時、道真は讃岐守であった。内容は、「阿衡」というこ文字の解釈をめぐって起こった政治上の大混乱に対して、鍵をにぎる基経に強硬方針の変更を求めたものである。
阿衡問題の経過をかいつまんで述べると、こうである。仁和三(八八七)年の秋、老齢の光孝天皇が崩じ、第七皇子の源定省が皇族に復帰して位を継いだ。宇多天皇である。これより先藤原基経は、光孝天皇を擁立した功によって、老天皇から政治の全権をゆだねられ、絶大の権力をふるっていた。ただし、位を継いだ宇多天皇がこの権力をひきつづき基経に与えるか、あるいは二十一歳の血気にまかせて親政をおこなうか、なりゆきや如何にと、貴族一同が固唾をのんで見守っていた。
その中で出された詔には、政務すべてを太政大臣(基経)に「関り白さしむ」とあった。いわゆる「関白」の語源である。ところが、基経が儀礼的にこれを辞退したのに対して、二度目に出された詔には、「よろしく阿衡の佐を以って卿の任とすベし」という、別の言葉があった。これが問題の発端である。いうまでもなく、詔勅は君主が臣下に与える手紙の一種だから、考えてみればこの一件は、一通の手紙が日本歴史上に起こした最大の事件である。基経側近のある学者が、「阿衡という中国語は、名誉だけで実権をともなわない地位を意味するのです」と、おためごかしに注意した。そうか、さてはというので、基経は自邸にひきこもって政務を拒否した。いわば総理大臣のストライキだから、国政はみるみる渋滞する。
基経のねらいは、この詔の執筆者である橘広相という学者の責任を聞い、これを失脚に追いこむことによって、広相を信任している新帝を屈服させることであった。宇多天皇は祉をしのんで詔書を書きかえたが、基経はあくまでも広相を刑に処しようとした。その意向におもねる法律専門家たちの出した結論は、広相を詐偽罪で遠流にするという、極度にきびしいものであった。道真の諌言の手紙は、そういう大詰めに直面した時点で書かれたのである。

「昭宣公に奉る書」は、約千八百字の長文である。道真は史上まれに見る名文家だから、原文を引かないと感銘がうすいが、どうにも難解すぎるから、下手な口語訳ですますほかはない。

――信じて諌めないのを「諛」(へつらい)といい、あやまって改めないのを「過」(あやまち)といいます。私はあなたに、先年耳ざわりのいい意見を申し上げたことがありますが、あれは「誤」でした。今度は黙っていられないので、「狂言」を進呈します。これは「過」でしょうけれども、どうかお許しいただきたい。さて、私はこの程讃岐から上京して、ある人から「阿衡」について情報を得ました。心痛で、居ても立ってもいられません。――

道真はこう書き出し、その心痛は二点あると説く。

――第一はじぶんたち文人の仕事のためです。およそ文章を作る場合は、かならずしも古典の意味を正確に引くものではなく、いわゆる「断章取義」で、元の意味を無視して都合のいいように古語を応用するものです。「阿衡」と書いた広相も、別にあなたを失脚させようと「異心」を挟んだわけではありますまい。それをとがめられ、こんな事がもし先例となったら、これから後文章を作る者はみな罪をまぬがれないことになります。その上、上は公卿から下は女や子供まで、知るも知らぬも広相の事を口にしている。これでは、世論が寄ってたかつて袋叩きにしているのです。「文章これよりして廃れむ」、これを文人のひとりとして心痛するのです。

この言葉は、時代をとび越えて現代の世論やマスコミに対する頂門の一針としても、通用するであろう。「一犬虚に吠え、万犬実を伝う」といった事例は、今も土日も多い。寄ってたかつての「いじめ」は、何も学校だけの事ではない。次に道真は、心痛の第二点は太政大臣ご自身のためですとして、広相にはいまの天皇に対して「大功一と至親三」があることをお忘れなさるな、と次のように力説する。

――「大功一あり」というのは、宇多天皇が臣下から皇族に復帰して即位する異例のことを、
あなたが反対したにもかかわらず、広相が奔走して実現させたことです。また「至親三あり」とは、広相の娘がすでに二人もの皇子を生み、いまも寵愛をうけ、このきさきを天皇に進めた阿偉藤原淑子が後宮に重きをなしている、そういう、天皇と広相の特別に親しい間柄のことです。

実はこの淑子は、基経の実の妹である。兄基経がいかに政府や役人を牛耳っていても、いざとなれば、宮中で天皇を支えている妹の力にはかなうまい。道真はそう見たのである。こういう政治の機微も、現代の政治家の病気や死などをめぐってよく見られる現象であろう。道真は第一点では正面から、第二点では裏面から、別の言葉でいえば、第一点では論理を尽くし、第二点では情にからめて、いやというほど基経の急所を突いたのである。

阿衡の紛糾は、基経がむずめ温子を天皇の後宮に入れることを条件にして(それはおそらく尚侍淑子のあっせん)広相を免責したことによって、急転直下決着した。実はこの妥協の成立に、道真の諌言がどれほど役立ったかという点は、どうも明白ではないのだ。あるいは局外者の道真が手紙を書くのに苦心している聞に妥協工作が進み、諌言は間に合わなかったのかも知れない。しかし、坂本太郎博士が、「かりに解決後に出された文章として、実効はなかったとしても、翻意後の基経を心理的に支持した功は偉大であったと思われる」といわれたのは、まさにそのとおりであろう。
百年ほど後の藤原公任の『北山抄』には、広相が死後道真の夢にあらわれ、感謝を述べたという伝説がみえる。基経や広相もさることながら、面を犯して諌言を呈した道真の気骨をだれよりも高く評価したのは、窮地に立っていた宇多天皇であった。その後道真が天皇に信任され、異例の昇進をしたのはよく知られている。
しかし、その異例の昇進が晩年の大宰府追放の悲劇を招いたのだから、人の禍福は一筋縄では計れない。実は追放される二か月ほど前、道真は三善清行という学者から、一通の諌言の手紙をもらっていた。「易によって占うと、近く天下に大変が起こる。あなたはこの辺で、異常な栄達をしたおのれの分を知って、引退されるがよい」という、痛烈な辞職勧告であった。道真がこれに従わなかった事情は、もう書く余白がない。
思えば、諌言もむつかしいが、諌言を容れるのは、もっとむつかしい事なのであろう。