乱世の自由人西行

名歌と伝説

これから西行について二回にわたりお話しするのですが、あまり精密に順序立てては、かえって堅苦しくなりますので、思いつくままというようなやり方でいきたいと思います。今日のところは西行の前半生、次回に後半生をお話しします。
西行法師という名前は、日本の歴史上の人物の中で、最大級にポピュラーな、知らない人はない名前かと思います。そこで、この人物がどうしてこのように誰にも名前を知られるようになったのか、という理由から考えてまいりましょう。
歴史上有名な人物と申しますと、たとえば藤原鎌足とか源頼朝、あるいは信長、秀吉、家康といった、一つの時代を切り開いたような人の知名度が高いことは当然ですが、西行は歴史を動かすような大事業をしたことは、ご承知のようにまったくないわけで、それどころか出家して、うき世をよそに自分の好むままに一生を送ったと見られている人です。そういう人物が、なぜ八百年後の今日もこれほど有名なのかということを、私は三つの点で考えてみたいのです。
一つは、西行の遣した和歌が愛唱されたことです。この和歌はどなたも何首かは御存じかと思います。二つ、三つ挙げてみますと、

年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

これは晩年の、七十歳に近いころの作品です。東海道は海岸を通る平らな道ですが、その中に所々高いところがある。その一つが浜松に近い小夜の中山で、難所の一つです。これは西行が陸奥平泉の藤原秀衡のところへ出かける途中で、二十代の頃にもここを通ったことを思い出して詠んだ歌です。
「命なりけり」という、非常に心のこもった表現がございまして、いろんな人が人生に対して同じような感慨を催すものですから深い共感を呼び、西行歌の中でもよく知られていると思います。その「小夜の中山」のある東海道には、富士山がそびえております。

風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思ひかな

という歌も同じ旅で詠みました。そこで西行が富士山を見上げている姿、いわゆる「富士見西行」が好んで絵にかかれております。墨染の衣を着て、笈を背負って、錫杖を突いて富士山をながめている姿です。そういうことも西行がポピュラーなゆえんかと思います。
それから、もっと有名な歌が百人一首にございます。

嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな

これは恋の歌です。月を見ているとそれが恋人の顔にみえ涙があふれでくる、はてきて何でこんなにも恋しいのか、という歌です。坊さんである西行に情緒纏綿たる恋歌があって、それが百人一首に入っているのはいぶかしいことですけれども、これもまた西行の一面です。百人一首のカルタは、正月に日本中で読み上げられますので、」れも西行を有名にした材料の一つであろうと思います。
それからもう一つ、あるいはこれが最も有名かもしれませんが、

何事のおはしますをば知らねども かたじけなさの涙こぽるる

という歌です。「おはしますかは」とか「かたじけなさに」と記憶されている方もありましょう。江戸時代の初めに西行の家集が木版本になりましたが、その中に入っております。西行は伊勢の神宮にお参りして、神威のありがたさに打たれてこう詠ったのです。明治維新以前は神と仏はきわめて密接な関係で、神社は大体お寺さんがお守りする、いわゆる神仏習合が通例でしたけれども、伊勢神宮だけはきびしく仏教を拒みまして、坊さんはお参りもあからさまにはできなかったのです。そういう伊勢の神様を坊さんである西行が詠って、そんな歌が世に伝わっているのはなぜでしょうか。
しかもこの歌は、西行が作ったかどうか実ははっきりしないもので、その木版本以前の、中世の西行の家集には、この歌は載っていないのです。したがって、何かの間違いで西行の作とされたのではないか、という疑問も濃いのですが、しかし西行の歌として大変有名なのは疑いもないことです。次に申し上げることになろうかと思いますが、西行は伊勢信仰と深い関係がありますから、思想的には西行作に近いと私は思います。
こんなふうに、西行には有名な歌が多くあります。西行が亡くなってすぐあとに、『新古今和歌集』という勅撰歌集がつくられましたが、西行はそれに九十四首も採られました。『新古今和歌集』に一番多数採られた歌人です。これは、陣頭指揮でこの勅撰集をつくられた後鳥羽院がいわば西行ファンで、西行を最も高く評価しておられましたので、おのずから筆頭歌人とされたのですが、この歌道の名声は後世の西行評価を決定づけた第一の要因であろうと思います。

ところが、ただそれだけではないのです。西行に関して数多くの逸話が伝えられていることも、皆さんはご承知ではないかと思います。たとえば、彼は二十三歳のときに出家しますが、このときの様子として次のような話が伝わっています。西行は北面――これは上皇の身辺に密着した秘書官といった役柄です――として勤めていました。ある日友達と一緒に役所から下ってまいりまして、また明朝ご一緒にと約束して別れた。そして、翌朝誘いに寄ったところが、門のところで人々があわただしく動いている。どうしたのかと聞くと、殿は昨夜亡くなられたという。これを聞いて西行は人生の無常を痛感したという話です。そして出家しようという決心を固めて、ある日家に帰ったら、四歳になる娘が、お父さまお帰りなさいと喜んで出迎えた。たまらなくかわいいと思ったけれど、待て待てこれこそ煩悩のきずなだと思って、取りすがる子を無情にも縁から蹴落して、嵯峨の聖のもとへ走ってもとどりを切った、という話もございます。これらは、西行の出家曹として世に聞こえた話です。
それからまた、先ほど申しました「年たけて」の歌を詠んだ旅で、平泉へ行く途中鎌倉に立ち寄りました。その年は文治二年ですから、平家が壇ノ浦で誠いひた直後です。そのとき鶴岡八幡宮の境内で頼朝に見つけられて、幕府の屋敷へ連れていかれ、懇切に兵法を質問される。鎌倉幕府の歴史を書いた『吾妻鏡』に、「秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法」を伝授したと書いてあります。秀郷は俵藤太という、ムカデ退治の伝説で有名な武将ですが、その祖先から西行は九代目で、しかもその嫡流です。その家に九代伝わった兵法を頼朝に講義したわけです。
頼朝と申しますと、征夷大将軍で武士の中心人物です。その人物に武士の表芸の兵法を教授したというのですからすごい。そして、頼朝は徹夜でその講義を聞き、部下に詳細にノートさせ、お礼に銀の猫をくれたのですが、西行は翌日幕府の門前で遊んでいた子供にそれをくれてやって、瓢然として陸奥へ旅立ったと書いてあります。この逸話もご存じの方が多かろうと思います。

この二つの逸話を比べましでも、片方は二十三歳のときに切迫た無常観で頭を丸めた人、片方は六十九歳のとき、つまり出家してから五十年もたつて、なおかつ先祖伝来の兵法を忘れずにいて頼朝に講義した人。この二つの逸話は両極端ですが、その中聞にいろんな逸話がなおたくさん伝わっています。そういう両極端があると、一体西行という人は何が本当の面白なのか、だれしも当惑させられるのではないかと思います。とにかく逸話が多くて、そのために西行はポピュラーになっているわけです。

それから第三番目に、これも日本全国にと申しあげてよろしいかと思いますが、いろんな土地に西行の遺跡が残っています。そう申しあげますと、自分の町にもある、自分のいなかにもあるといわれる方が多いと思います。
代表的なものを二つ、三つ拾ってお話ししますと、京都に通称「花の寺」という寺がございます。正式の名前は「勝持寺」ですが、桜の名所ですので、おいでになった方もあろうかと思います。この「花の寺」は、西行が出家した場所だと寺では伝えています。西行の木像などが安置されていまして、

花見にとむれつつ人のくるのみぞ あたらきくらのとがにはありける

という歌はここで、詠んだのだと、寺では言っております。
西行は花と月が大好きで、西行の名歌の大きなピーグは、桜の歌と月の歌です。その中でちょっと異色なのはこの歌で、花は実にいいものだけれど、花見にたくさんの人がやってきて騒ぐのでそだけがマイナスだというのです。この歌は、西行の家集である『MT集』にあり、西行の歌であることは間違いないのですが、しかし「花の寺」でこの歌が詠まれたという証拠はまったくない。『山家集』にはそういうことはまったく書いていない。お寺さんには悪いのですが、西行の出家したのはおそらくここではあるまい、この歌もそこで生まれたわけではないだろうと思うのです。ただ、いつのころからかそういうふうな伝えができ、全山に桜の木が植えられ、寺伝の真偽はしばらく別として、お出でになれば楽しいところです。寺伝そのものはどうやらあとでできたものでしょう。そういうところが各地に多いのです。
東京近辺では、大磯に「鴫立庵」という遺跡がございます。お恥ずかしいのですが、灯台下暗しで、私は「鴫立庵」をいまだに訪ねたことがございません。この春出かける一歩手前までおぜん立てができたのですが、庵主さんのご都合が悪くて延ばしまして、まだ伺っておりません。この「鴫立庵」には、ここに西行が庵を結んでいたという伝説があります。それはこういうわけです。西行の歌に、

心なき身にもあはれは知られけり 鳴立つ沢の秋の夕暮

があります。意味は説明の必要がないほど明快な歌です。これは確かに西行の作品で、しかもみずから会心の作と考えていたようであります。事実また名歌ですね。『新古今集』にはこの歌をふくむ三首の「秋の夕暮」の歌が並んでおりまして、その一つは、

さびしさはその色としもなかりけり 損立つ山の秋の夕暮

これは寂蓮法師という人の歌です。それからもう一つは、

見渡せば花ももみぢもなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮

これは藤原定家の歌で、この三首が三タの歌として有名ですが、しかし、西行のこの名歌が大磯で詠まれた証拠はまったくない。『新古今集』や『山家集』を見ましでも、この歌の詞書には「秋、ものへまかりける道にて」と書いてあるだけです。ある年の秋にどこかへ行く途中でというだけで、固有名詞はまったくない。したがって、これまた後世の誰かが言い出した伝説だと思います。
ただ、その言い伝えも大変古くて、安土桃山時代には、もうここで鳴が飛び立って西行が歌を詠んだということになっていたようです。しかし、室町以前にはさかのぼらないように思います。
それから、もう少し北へ参りますと、那須高原に「遊行柳」というのがあります。これは私も行つたことがございます。田んぼの真ん中に柳が一本植えられておりまして、a-三十坪くらいの芝生の中で柳が風にそよいでおります。その「遊行柳」というのは、謡曲の題名から来たもので、ご存じの方も多いと思います。旅僧の前に柳の精が出てくるという筋ですが、その中に、

道のベの清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりけれ

という西行の歌が引用されております。そして詠まれた場所はまさにここだ、ということになっている。柳の木が枯れると誰かが植え継ぎ、今ある柳は何代目かわかりませんが、あまり大きな柳ではありません。たぶんこの部屋の天井までは届かない、もっとずっと小さい柳が植え継がれているというわけです。
このように見てまいりますと、全国至るところに西行の足跡があるといってよろしい。あとで申し上げますように、実際に西行が行った所もありますが、行かないところにも遺跡ができております。しかも、もっともらしい逸話の伝わっている遺跡はまだしもなので、たとえばこの松の木に昔西行法師が衣をかけたとか、この石に腰かけたのだとか、あるいはこの村に西行がやってきたけれども、子供と問答をしてうまく言い負かされたので、頭をかいてここから戻ったのだという、いわゆる「西行戻し」、「西行戻り」といったパターンの話に至つては、日本全国にくまなく分布しているのです。これは早く柳田国男が注目しています。

以上申し上げましたように、西行はその和歌、逸話、遺跡という三点で、世にあまねく知られております。ところが、この村に西行がやってきてどうしたこうしたというように語り伝えた民衆は、西行の名歌とはほとんど付き合いがない。西行が歌詠みだということさえも知っていたかどうか。反対に西行の歌をこよなく愛する人たちはそうした民衆とはちょっと違う。言ってみれば、代々のインテリだったと思います。この対照的な見方の中から、西行の統一的なイメージが浮かんでくるかと申しますと、これは無理ではないでしょうか。ちょうどあの福笑いのように、全然バラバラなイメージが伝わっているのではないかと思います。実体は何であったかどなたにもよくわからないままに、名前だけがポピュラーになってきたのが、西行という人の特徴かと思います。
そこで確実な史料を探して、新たに西行の伝記を組み立てると、どういうことになるでしょうか。
ごく大ざっぱに申しますと、西行は二十三歳で出家するまでは武人として仕え、先祖代々の兵法を継いでいた。しかしながら、源平両氏のいずれにも従属していたわけではなく、実際に合戦をしていたわけでもない。そして二十三歳で遁世したあとの五十年間は出家の身分でしたが、ある特定の寺に従属していたとか、一つの宗派を開いたとか、そういうわけではありません。それから、歌人ではありましたけれども、いわゆる歌壇とはまったく縁がなかった。当時の有力歌人は、宮廷とか貴族の注文を受け歌を詠んで進める、それを集めて歌合という遊びが行われます。歌を左と右に組み合わせ、相撲のように左が勝った右が負けたと勝負を競うのです。そういう催しが流行して、セミプロ、あるいはプロの歌人がたくさんいたわけです。ところが、西行は、没後『新古今集』の筆頭歌人になったぐらいの人ですから、生前から歌のうまさは世に知られていましたけれども、彼は歌合にただの一首も歌を差し出していないのです。つまり、歌を売りものにはしなかったということです。したがって、当時の歌壇の中心人物である藤原俊成とは非常に親しかったし、相互に尊敬し合っていたけれども、歌人たちとのつき合いからは一線を画しておりました。
そうしますと、西行は武人兼僧侶兼歌人ですけれども、しかしまたそのいずれでもない、ということになろうかと思います。こういう存在をどう名づけたらよいか。現代的な言葉で申しますと、人と申しますか、あるいは知識人、文化人といった範暗に入るかと思います。しかし、現代ならばそういう人もたくさんいるわけですが、なにしろ時代は遠い中世の初期ですから、こういう特異な存在をどのように社会的に位置づけたらよいかということが、根本の問題であろうと思います。