日記にみる悪左府頼長

国文学研究資料館にはだいぶ前に伺ったことがありますが、面白一新した立派な施設を拝見して、びっくりしております。
さて、院政期の日記ということでお話をするわけですが、十二世紀の院政期は、公家の日記というものが私ども歴史学の方で主要な史料になって来る時期ですので、面白い日記がいろいろあります。
中でも双壁といっていいのは、『中右記』と『台記』かと思います。短かい時間にあれもこれもということになりますと、結局何も申し上げないに等しいことになりますから、」こでは『台記』にしぼり、それも『台記』全体を解説するというのではなくて、いわば私が『台記』を読んで面白く感じた所をピックアップして、断片的にお話申し上げるほかないだろうと、」う思っております。
この『台記』及び著者藤原頼長については、宮内庁の書陵部におられる橋本義彦さんが最もよく調べられて、『藤原頼長』という伝記がございます。これは吉川弘文館の「人物叢書」の一冊で、小型なものですから、これをご覧いただけばよいでしょう。それから『台記』そのものにつきましでも、橋本さんの『平安貴族社会の研究』という名著の中に「中右記と台記」という論文がございます。このようなものが、全体をお考えいただくのにふさわしい業績と思います。従って解題的なことは一切省略します。
先ほど 『中右記』と 『台記』が院政期の日記の中では最も 名記ではないかと申仕上げましたが、『中右記』の方はそれを書いた中御門右大臣宗忠という人が実に資性温厚な、そして公事に練達の人で、白河院政期五十年にわたって書き継がれたこの日記は、いわゆる有職故実の史料としては並ぶもののないものです。ところが頼長の方は、そうした公卿学と申しましょうか、あるいは有職故実と申しますか、そういうものを自分の本領と考えていなかった型破りの人物で、その代わりに頼長が最も心血を注いだのは、中国の学問です。しかも経と史の中でも経学に全力を注ぎました。
そういう異色の志向を持っていたということが、ひいては彼が保元の乱であのような非業の最期を遂げることにも繋がって行くわけで、まことに時流とかけ離れた人でした。従ってこの 『台記』という日記は、公家日記というものが儀式の記事を長々と記して退屈きわまるものである中にあって、異例の文学的興趣に富んだ、つまり頼長の人間性というものが躍動している、そういう特徴があると思います。
この頼長の人間的特徴を、たとえば 『今鏡』は、「公私につけて、何事もいみじくきびしき人に ぞおはせし」という風に批評しております。それからまた、頼長の甥に当たる慈円の 『愚管抄』には、「コノ頼長公、日本第一ノ大学生、和漢ノ才ニ富ミテ、腹悪シグ万二キハドキ人ナリケル」、と非常に端的な批評をしております。「悪左府トイフ名ヲ天下ノ諸人ツケタリケレ」とも書かれています。『保元物語』にも 「悪左大臣股」と言っております。
「悪」とは道徳的な罪悪をいうのではなくて、型破りに物すごい事をやる人間といった意味で、悪源太義平とか悪七兵衛景清といった人物の悪も、それに当たるわけです。そうした人物像を、頼長の『台記』そのものの中 に探るのがよいと思いますので、若干の史料のコピーを館にお願いして用 意しました。それを順を追って読んで、説明したいと考えております。

史料の第一番目は、『台記』の康治元年十二月三十日の条。除夜の明け方に及んでの感想ですが、この年頼長はまだ二十三歳です。

予、柳ずの経史に遊ばせ、思を我朝の書記に停めず。何りて抄出するところ殊に委曲ならず。

「抄出するところ」とは、朝廷の行事に関しての先例を自分の勉強のために抜き出したことを指しているのです。つまり自分は経史の勉強に専念しているものだから、日本のそうした書物についてはあまり関心がない、そこで今必要なところを抜き出したけれどもあまり詳しくやる気がない、そう言っているのです。つづいて、

子孫また金経旧史を好む者はこの限りにあらず。然らざるものはすみやかに倭国の旧事を習ひ、世叡の忠節を慕ふベし。

子孫も倭国の旧事、すなわち日本国の古い伝統には習熟しなければならない、そしてひまわりの花が日に向かうように、公事を忠実に勤めるがよい、けれども頼長自身のように儒学を好む者はこの限りでないと、こう言っております。つまり、儒学の方が遥かに優れているのだというごとを強調しているわけです。さらにその後が面白いのでして、「総竹和歌に至りては、勧むるところにあらずといへども、強ひて季べからず」と書く。和歌や管弦は当時の公卿にとっては必須の教養なのですが、それは別に勧めもしないが禁じもしない。こう突き放しているのです。ちなみに、その頼長の遺子師長が等の琴の大家になるのですから、世の中はおもしろいものです。次に「鷹犬牛馬酒色等の類においでは、深く以て之を禁ず。」鷹狩りや競馬といった娯楽、それから飲酒や女色、そういったものはやってはいけないと子孫を戒めています。
その後のところに、学問に志した由来が書いてあります。

予、少年に在りては、の教命に随はず。鷹を臂にし馬に鞭うち、山野を駈馳す。時醸電逸し殆んど命を失ふに及ぶ。仏神の加被に依りて、僻かに身を存すと離も、顧りみれば庇猶在り。鏡を引きてこれを見るに、弥増孫の誠忌を賠す。

つまり少年の時分には父忠実の教えに従わず、スポーツばっかりやっていて、落馬してすんでのことに命を落とすところであった、その傷跡は今も残っているということです。そういうやんちゃな若者であったが、後に学聞に志したというふうに書いてあるので私はこれを見ますと、平安時代の初めの、小野重の逸話を思い出すのです。小野重がやはり、父親の容守に随って陸奥へ参りまして、山野を駆け廻ってばかりいた、そして嵯峨天皇に、あの好学の容守の子ともあろう者が何たることかと酷評され、そこで学聞に志して才能を発揮するに至った、という逸話がございます。似たような人物です。つまり頼長という人は、ある時翻然として学に志したのですが、本来は非常に気力も体力も旺盛な野性的人物であったということが、これによって分かるのです。
しからば頼長がどのように経学に励んだかと申しますと、これは『台記』の中に自分の勉強の成果、つまり読書リストを作っておりまして、それによって、全貌が分かるのです。なお『台記』はご承知と思いますけれども、明治時代に『史料大観』という叢書で活字本が出、その後に『史料大成』という叢書でまた活字本が出来ました。しかし頼長の日記はかなり散逸しておりますので、それを他の人が集めたものを、『宇塊記抄』といいます。その他にも頼長は、儀式に関する詳しい記事を、他の公卿も当時よくやったように別記として残しております。そういうものを集めたものがこの史料大成本で、三冊になっております。ところがこれでも校訂が不完全ですので、この頃『史料纂集』という叢書で、先ほど申しました橋本義彦さんが活字本を作り始められたのですが、現在では第一冊しか出ておりません。
さて『台記』の読書リストはどんなものかと申しますと、康治二年九月三十日の条に、頼長二十四歳の時ですが、今日までに見及ぶところ一千三十巻のリストをここに書いておく、そしてこれから後は、毎年十二月の晦日に、その年に読んだ本を書きとめることにすると、こういうふうに書いてあるのです。そして一千三十巻の書名をズラリと並べて、それをどの年に読んだかということも書き付けてございます。

最初に「経家三百六十二巻」、これは尚書、周礼、儀礼、礼記、春秋の三伝、論語、孟子から老子、荘子などに至るまで三百六十二巻が列挙されてあります。次は「史家」つまり歴史です、これが三百二十六巻。史記、漢書、後漢書以下、新唐書に至るまで、三百二十六巻を読んだと書いてあります。
その次は「雑家」が三百四十二巻、その中には蒙求を始めとして、帝範とか荊楚歳時記のようなものに至るまで、いろいろございます。更にこの一千三十巻のほかに、「儲載百三十八巻」という躍大な百科事典も読破しているのです。この大事典を丸暗記しようとして、いかになんでもと言って引き留められたことも、『台記』に書いてあります。
この読書リストを見ますと、頼長は十七、八歳の時から学聞に志しております。最初は当時の普通のやり方に従って、文章道の典籍である史書を専ら読んでいたのですが、やがて二十歳を過ぎたころから、経学に全力を集中して行く。その後毎年末に読んだ書物のリストを書くという決心も、四、五年聞きちょうめんに実行しております。
好学の頼長はまた非常な蔵書家でありまして、博多に来た宋船などから書物が届けられますと、大喜びしております。それから、その蔵書を保存するための書庫も建てておりますがその室百庫の有様を一万す天養二年四月二日のところには、「文倉」のたてよこの大きさ、それから囲にり築垣があるとか防火用の池があるとか、そういった規模をずっと記Lてあります。十四日には、吉日を選んでその書庫の使い初めの行事をやったことも記されているのです。これで頼長の勉学ぶりの一端を示したつもりでございます。この他にたとえば老子とか易とか、いろいろな書物を講義していますし、彼の先生とか学友とか、そういう人々の名前も『台記』にたくさん出て参ります。

ところが頼長は学問に没頭して碩学の生涯に徹するわけにはいかなかった。と申しますのは、たとえ嫡男ではないとはいえ摂関家の公達であったために、当然政治の世界に深入りしていかなければならないわけです。その場合に、なまじ時流とかけ離れた経学の教養があるものですから、それを尺度としての他人の言動や政治への批判が、とび離れて厳格にならざるをえなかった、この事が頼長の後年の悲劇にふかく関係してくるのです。
そうした点を覗いて見ますと、史料の四番目は康治元年四月二十八日の条ですが、それは康治と改元された時の記事です。

二十八日辛卯。今日改元有りと云々。康治なり。これを案ずるに、康治の威は飢なり。若じ治に労せば音の反は忌なり。

「康」という字のkと「治」の母音のi、これをつなげばkiになります。つまり康治はこれを反切(二つの漢字で一つの字の音を一示す方法)とすると、kiつまり「飢」とか「忌」になるというのです。
ですから「康治」という年号はひどく縁起が悪い。そして、なぜそうかという理由を、さらに彼は説明して、「春秋」の穀梁伝を引くのです。

又穀梁伝の昭二十一年に誌く、大いに饑うと。伝に云く、一穀みのらざる、これを嗛と云ふ。
二穀みのらざる、これを饑と云ふ。三穀みのらざる、これを饉と云ふ。四穀みのらざる、これを康と云ふ。康は虚なり。五穀みのらざる、これを大侵と云ふと。

すなわち康というのは五穀の内の四穀が実らないことで、機謹よりももいうのである、故に「康は虚なり」と説明しております。さらにこうも書いています、「今案ずるに、康治の二字皆水に従ふ」。康も治も文字の中には水という字が入っているから、「然れば則ち水災を以て機謹あるべきの象なり」、雨が多すぎて、不作になるぞ。こういう風に頼長は得意の経学を駆使して、康治という新しい年号をぼろくそに叩いているわけです。
頼長は後日この事を出席者の一人に聞いてみたのですが、「参入の卿相更に比の事を申さず家の誠亡宣に宜ベならう返答であった。そこで、

官に在りては宜しく能を使ふベし。今の卿土は皆以って経史を学ばず、国家の誠亡宣に宜ベならずや。

これはいかにも頼長らしい痛烈な批評です。政府は能力ある者を用いるべきなのに、今の公卿連中はみんな不勉強だ、これでは国家の滅亡も当然ではないか、こう言っております。
こういう痛烈な批評の背景には、どうやら頼長の才学を兄忠通が十分認識していないということへの不平不満があったようです。そのいきさつはこうです。

摂政〈忠通〉命じて云く、「今日改元・国郡卜定等の事有るベし。改元においては、不参も何事か有らんや、国郡ト定は大納言肌どなるの例慨しからず、疾を撚けて参るベし」てへり。余固辞し了んぬ。

兄忠通の命令は、改元と国郡ト定(大者会の悠紀・主基の国郡を定めること〉の二行事がある、改元には出席しなくてもいいが、国郡卜定に内大臣の頼長が出席しないと、大納言が議長として行事をやらなければならない、それではよろしくないから病いをおしてやって来い。」ういう命令ですが、頼長はこれにカチンと来て欠席したのです。頼長にいわせると、改元には自分は一家言を持っているから、しいて来てくれと言われれば行かぬこともない。しかるに国郡ト定に大納言が議長になる例がないから出て来いと言うのは、自分の能力を尊重して出席してくれと言うのではなく、てただ地位が高いからというだけではないか。そんな命令にどうして従えるか、というのであります。そして最後にこうあざけります、今日の改元定めの卿相、犬馬に異らざるものなり」。このへんがいかにも頼長らしいでしょう。

それから史料の五番目康治二年十月二十三日の条、これは父忠実の天王寺詣に随行した記事です。
そこに聖徳太子の御鉛日いわれるものがありまして、それをお守りとして、一聞が少しずつ分けていただいた。ところが頼長は、お寺のものを盗み取るということは破戒である、そんなことはできない、といって独りこれを拒絶した。
身を持することが非常に厳しいのです。自分に対して厳しいのですから、当然他人に対しても褒毘ともに容赦しないのであります。その例を、一つ二つ。
まず史料六番目の康治元年三月十五日の条。『台記』の中でも有名な記事です。何故有名か ますと、西行法師の伝記上欠くべからざるものだからで、先ほご紹介にあずかりました私の小さな研究でも、大いに役立てました。

十五日戊申。侍共をして弓を射しむ。西行法師来たりて云く、「一品経を行ふに依りて、両院以下の貴所皆下し給ふな。料紙の美悪を嫌はず、只自筆を用ふベし」と、予、不軽承諾す。

侍どもに弓を訓練しているところへ西行法師という者が一品経の勧進にやって来た。一品経とは、法華経二十八口聞の一口問ずつを写し、供養料を添えて寺に寄進することです。両院というのは鳥羽法皇と待賢門院です。この両院以下が皆お引き受けになったから、紙はどうでも良いけれども、ただ必ず自筆でお書きいただきたい、こういって西行が頼んだ。そこで自分は不軽口問を書くことを承諾したというのです。実はこの「不軽承諾す」の所は、以前はこれを「余軽がるしく承諾せず」と、勧進を断ったように訓んでいたのですが、東京国立博物館の小松茂美さんが、そうではなくて、不軽というのは法華経の不軽品である、不軽口聞を写することを承諾したのであると訂正されました。古記録を読むのもむずかしいのでありまして、読み損うと、イエスとノーが逆になってしまうわけです。ともかく頼長は写経を承諾した。その折頼長はいたく西行に興味を催したと見えまして、

又余、念を問ふ。 答へて日く二十五。去々年出家、二十三。抑も西行はもと兵衛尉義清なり。左衛門大夫康清の子。重代の勇士を以て法皇に仕ふ。俗時より心を仏道に入れ、家富み年若く、心に愁なきも、遂に以て遁世す。人これを嘆美するなり。

『西行物一昔巴などに伝えられるあの有名な遁世の時、西行が二十三歳だったことがこれで分かります。自分と二つしか年の違わない若者の、そうした決然たる行動に対して、頼長がほとほと感じ入ったということも、この記事によって分かるわけです。
こういう讃美をする反面に、他人の悪口もいろいろ書いています。出家前の西行は、頼長の妻の里方徳大寺家に仕えていたのですが、この家から出た待賢門院とか、その生んだ崇徳院とか、そういう人に頼長は親しい気持ちを持つ一方、待賢門院のライバル美福門院周辺の人々をひどく軽蔑し憎悪しておりまして、酷評が『台記』に俸りもなく書かれています。借上の沙汰であるとか、率官修も甚しいとか、いろいろやっております。
そういう褒貶のきびしさもさることながら、時には奇想天外と申しますか、むしろゾッとするような行動も見られるので、その代表的なのが史料七番目の天養二年十二月十七日の条です。

今夜不祥の雲あり。召使国貞を殺すところの庁の下部、去んぬる七日非常赦にて免ぜらる。今夜件の下部殺さると云々。

召使というのは太政官の役人ですが、召使の国貞という男が前に殺された。ところが犯人は去る七日の非常赦で放免されてしまったのだが、今夜その男が何者かに殺されたそうだ。そういう記事です。続いて次のように書きます。

国貞忠を以て君につかふ。今其の仇の殺さるるは、天の然らしむるか。太政官の大慶なり。未だ何必の所為なるかを知らず、或ひは云く、国貞の子の召使の所為なりと云々。

国貞は非常に忠義な男であった。その仇が今殺されたというのは、これは天罰であろう。政府にとって大いに結構なことだが、誰がやったのか分からない。噂によると国貞の子供がやったということだ。ここまでが日記の本文ですが、その下の割注に、事の真相を頼長はみずから書いているのです。その割注はこうです。

其の実は、余、左近府生奉行春に命じて、之を殺さしむ。天に代りて之を設す。猶武王の約を訣するがごときなり。人敢てこれを知ることなし。

これは大変なことで、真相は頼長が家来に命じて、この男を殺させたんだというのです。そして頼長は天に代ってあれを殺したのだと昂然と言い放ち、この殺人を周の武王が暴逆な肢の紂王を討った行為に匹敵する正義だと誇っているわけです。しかも完全犯罪だと得意然として書き付けています。こういう、暗殺と申しますか、殺人と申しますか、そんな事実をあけすけに書いた日記は他にあまりないでしょう。このあたりに、いかにも頼長という人の「悪左府」といわれた人柄がよく出ていると思います。
そういう思い切ったことをやるだけあって、頼長は体力も抜群でした。三メートルも五メートルもある巨大な雪の山を、食事も抜きで作ったなどという体験も、『台記』に書かれております。それからまた、酒色を戒しむなどとも言っておりまして、たしかに女性関係は派手ではなかったのですが、男色はたいへんお得意で、その記事が『台記』の中に頻出しております。これは東野治之さんという方が「日記に見る藤原頼長の男色関係」という異色ある論文をヒストリアという雑誌の八四号に書いておられます。これはごく真面目な論文で、頼長の私生活の一面を知ることが出来るので、それに譲ります。

実は一番感動的な場面として、くわしく申し上げたかったのは、高階通憲と頼長の交友であります。高階通憲とは、かの有名な少納言入道信西のことです。この信西も「学生抜群の者」と『愚管抄』に書かれております。頼長よりは十四歳年長で、しかも奇しくも保元の乱では頼長と真向から対立し、そして数年後には平治の乱で、保元の乱の頼長と同じような非業の最期を遂げてしまう。いろんな意味で頼長と双壁を以って目すべき人物ですが、この通憲と頼長の聞には、破局に至る以前、頼長が学聞に励んでいた青年期に、きわめて密接な交わりがございました。それは『台記』の中に実にしばしば出て来ます。頼長は通憲から易を学び、その点については通憲を師と仰いでいるのです。二つだけ史料を読んで、他はご想像いただくことにしますので、その時聞を館からお許し頂きたいと思います。まず史料の九番目です。
康治二年八月四日の条ですが、通憲がいよいよ出家する決心をして、この時は結局中止するのですが、そのことについての記事です。

夜に入りて、資賢朝臣語りて云く、日向の前司通憲、来る二十五日出家すベし。既に院奏を経て、暇を給はりおはんぬ。法皇顕頼卿に仰せ合はす。申して云く、「天下の才子これに如くはなし、庶幾くは許すことなかれ」と。

通憲が出家申請の手続きを取った。これに対して、鳥羽法皇がどうしたものかと側近の藤原顕頼に伸せられたところ、顕頼が「彼ほどの才土はありません。どうか出家を許さないでいただきたい」と言ったというのです。このことを耳にした頼長は、あくる日家司を使として通憲の亭に遣わし、自分の考えを述べています。

山城前吏をして日州前吏通憲に伝へしめて日く、貴下遁世の由これを聞けり。貴下の為には現世資けず、後世菩提を得。専ら益あらんo朝としては耽となす。其の故は、其の才を以て顕官に居らず、すでに以て遁世す。才世に余りあり、世これを尊ばず。是れ天の我が国を亡ぼすなり。

出家はあなたにはプラスであろうが、朝廷め耽である、すぐれた才能を尊重しないのは亡国のしるしであろう。こう言って、その遁世を惜しんでいるわけです。さらに十一日のところを見ますと、

夜に入り、通憲に逢ひて、相共に突す。通憲をして箆を吹かしむ。帰らんと欲するに、余に命じて云く、臣、運の拙なきを以て一職を帯せず、すでに以って遁世す。人定めて以って才の高きを以って天これを亡ぼすとなし、いよいよ学を廃せん。願はくは股下廃することなかれと。余日く、よし、敢て命を忘れじと。涙数行下る。

通憲を訪ねて共に泣いたのです。そして頼長が帰ろうとしたところ、通憲は次のように言った。自分は不幸にして政府の枢要な官職に就くことができずに遁世する。そこで世の中の人は「才の高きを以って天これを亡ぼす」と思い、いよしγよ学閣を廃するであろう、どうか殿下だけは廃してくださるな。頼長は感激して、一艇を流したというのであります。まことにうるわしい場面です。信西は遁世に当たって、頼長に彼の学聞を継ぐことを依嘱しているわけです。
その時には、実は信西は遁世を取り止めました。それから頼長は一所懸命に易を信西に学びます。そして二年ほどで頼長の易に対する知識は急速に進んで、信西と論争までするようになって行きます。信西をちょっとやり込めたりするのです。史料八番目の天養二年六月七日の条ですが、「通憲答へて云く、小僧の誤りなり、罪謝するところを知らず」、と信西は自説の非を認めます。それからが注意すべきところですが、

又日く、閤下の才千古に恥ぢず、漢朝を訪ふに又比類少なし。既に我朝中古の先達を超ゆ。その才の我国に過ぐるは、深く危催するところなり。今より以後、経典を学ぶことなかれと。

信西はこう言っているのです。あなたの才能は小さな我が固に過ぎたものであることを、私は深くおそれ、あやぶむ、もうこれからは経学を学ぶことはおよしなさいと。つまり、先ほどの史料で言つたことと正反対のことを、信西はここで忠告したわけです。頼長はそれに対して、「余答へず、心に栄となす」、心の中で光栄に思ったと言っております。自信家の頼長はこの言葉を単なる讃辞と受け止めたのですが、信西の忠告は政治家頼長の将来に対する深刻な憂慮からだったのでしょう。私はこのわずか二年しかへだたっていないこつの記事を対照して、信西の頼長に対する観方の変化が、実におもしろいと思うのです。果たせるかな、これから頼長は急速に政治的孤立に追い込まれていくわけです、そして最後はご承知のような破局におちいります。信西も才学余り有る故に世に容れられなかった人ですが、頼長はその点をもっと悲劇的に体験しなければならなかったということであります。
『台記』を読んでおりますと、頼長の型破りな人柄と、それによって彼が破局に追いつめられて行くドラマチックな生涯と、その二つが、あざやかに出て参ります。そこが、当時の日記としては実に異色ある点で、直接お読みいただくならば、他の日記を読むのと一味違った興趣を覚えられるのではないかと思います。どうも急ぎまして、それも五分超過いたしました。これでおしまいにします。