あとがき

ここ五年ほどの聞に、折にふれてものした講演や雑文が、東峰書房の好意によって小冊子にまとめられた。

旧稿を集めてみて気付いたのは、ほとんどすべてが古人の足跡を追いかけ、その膝下に推参しているという事であった。社会や政治の内部構造を精密に分析することが現代歴史学の主流とすれば、ひたすら人間に執するのはアマチュアぷりと自認するほかはないけれども、老来はや左顧右閉する余地もなくなっている。われには許せ敷島の道。さいわいにそれを許容される読者の一柴を得られれば、望外の事といわねばならない。
西行・後鳥羽院をはじめ、はるかに遠い世の「古人」たちを存問した本に、「今人」と申すべき芸林諸家に関する短章を収めたのは、木に竹を接いだように見えるかも知れない。しかし、私が諸家の知遇を得たのは古人を仲立ちとしてのことで、つまりこれらの今人は古人への存聞の先達なのである。私にとっては諸家の深い恩頼がいかに天与の滋養であったことか、あらためて感銘を深くする。今人への存聞を一本に併せ収めた所以である。
長い年月、独自の本造りで愛書家の定評を得てきた東峰書房を継承して、こつこつ苦労している高橋衛氏のために、この本が荷厄介にならぬよう願うばかりである。

昭和丙寅首夏
目崎徳衛

求道遍歴の人

かれこれ四十年前、ひとりの少年が旧制最後の新潟高等学校に入学した。入寮した時、上級生の寮長に問いかけられる、「何のためにここに入ってきたのか、諸君の考えを聞きたい」と。何のために?何となく親に甘えてきた受験生の諸君が、責任ある自分自身をもう一度生み直す、「再誕」の場所がここなんだぞと言われて、少年は目のウロコが落ちたような衝撃をうける。そこから『求道遍歴』(法蔵選書)の著者の、長い「求道遍歴」がはじまった。
旧制高校の三年間、いかに生くべきかを求めて哲学や文学に悪戦苦闘し、解決しえないまま京都大学に進んだ青年は、ふと思い立って比叡山にのぼる。茶店の老人に教えられて門を叩いた無動寺で、千日回峰行をした高僧にめぐり会う。周囲の危ぶみ止めるのを押し切って出家し、当時、ほとんど廃絶していた「十二年龍山」の行に入る。意志と体力の極限を行く修行がつづいた。
十二年の行の終わるころ、湿気の多い山の生活に肉体を痛めつけられていた著者は、ヨーガ指導者の佐保田鶴治阪大教授にめぐり会う。著者の学んでいた天台の止観行のルーツは、ヨーガである。その修行を志してインドに渡ったが、やがて仏跡巡礼の旅に出る。そして聖地一フージギル(王舎城)の地で、山上に世界平和の大塔を建立しつつある日本山妙法寺の上人たちにめぐり会う。炎熱のもとで建設工事の人夫として奉仕した後、九歳のインド少年を連れて帰国する。少年はインドで最下層にしいたげられている不可触民の子であった。
その後十余年、著者堀沢祖門師はいま比叡山の居士林所長として、みずから編み出した独特の禅法を在家の人びとに教え、たくましく成長したサンガ少年は、仏教発祥の故国に仏教を復興するために、帰って行こうとしている。
この書物は、こうした求道と出会いの、すがすがしい半生の記録である。大正大学の石上善応教授との対談による行の回顧、短歌雑誌に寄稿したインド通信、企業や信徒への講話を集めたものである。青春の聞いを生涯持ちつづけ、しかも超人的な「行」によって解決を求めた点で、著者が現代に問いかけるものは限りなく重いが、書物はこれを無造作に、気楽に、時にはユーモラスに語り、読者は著者の慈眼に対面するような思いがすると思う。
私は敗戦直後に郷里で新米教師となり、海軍兵学校から復員して来た少年の著者と避遁した。世俗的な意味では私が師であろうが、実はその後四十年、私は著者のひたむきな求道に、たえず強い精神的刺戟を受けつづけた。語の深い意味では、著者こそ私の師であった。弟子を師とするとは、得がたい人生の幸せではあるまいか。
ところで、半生を「行」に専念してきた祖門師の、このはじめての著作を世に送り出したのは、若い編集者美谷克美氏であるが、氏はいま富山県の豪雪地帯の過疎の村に、妻子ともども移り住んでいる。大工に弟子入りして廃屋を修理改造し、山に入って炭を焼き、無農薬の米作りをする暮しを始めている。これはあたかも、もう一つの「龍山行」であろう。
数年前、ある企画で数度陣屋を訪ねてくれた際、談たまたま祖門師に及んだところから、氏の叡山への訪問がはじまり、ついに祖門師に重い腰を上げさせたのであった。この本の上梓を最後に退社するという言葉をチラと聞いてはいたが、まさかこういう龍山行に入るとは凡慮の及ぶところではなかった。
東大の仏文出身で、十年間仏蘭西ならぬ仏教書の出版に従事した美谷氏は、文字だけで仏教を理解しようとする「自家中毒症状」を断ちきろうとし、また「総中流意識の一億分の一」たることを拒否したのである。その「求道遍歴」のすがたは私に、親驚が景慕してやまなかった賀古の沙弥教信(二八頁参照〉の生活を連想させる。
祖門師はいま、叡山から毎月一回郷里の新潟県へ通って法華経を講じている。その道中で、折々美谷氏との交流があるようである。人の「寵山行者」の交わりの中から、将来何が育まれて来るのであろうか。

歴史学者と短歌

何年か前に、国立歴史民俗博物館の展示計画に加わることになり、月に一度くらいずつ佐倉通いをした。その項、私は「短歌」誌に「百人一首の作者たち」を連載させてもらっていた。ある日館長の井上光貞氏に、「きみの連載、おもしろく読んでるよ」と言われ、不意を突かれた。年来「短歌」の購読者だということで、まことに意外に思った。
そういえば、井上さんの退官記念にもらった『東大三十余年』の巻末には「短歌三十五首」が収められ、うち二十首は「求めに応じて、講談社版、昭和高葉集に投じたもの」という注記があった。その後書かれた自伝『わたくしの古代史学』にも、そこここに自作が入っていたが、正直にいえば私はそれらをほとんど眼に止めていなかった。そのわけは、どの本の場合も中に記された論文ないし研究回顧が圧倒的な迫力を持っていたからで、いわばサシミのツマにまで隈をくばる心理的余裕を与」えられなかったからである。

昨年の二月井上さんが、十日余に迫った歴博開館を前にして、明子夫人のことばを借りれば「竜に乗り、大地をゆるがして空に登った様に」急逝してから、早くも一年が経ち、一周忌の供養に一巻の家集が編まれた。題しで『冬の海』。五部立てで約五二O首を収めるが、実際には第一部「若き日の歌のかずかず」と第二部「冬の海」以下の聞に二十余年の中断があるから、青春の作と晩年の作の二部から成るといってよかろう。
『昭和高葉集』の編集者が井上さんに投稿を求めたきっかけについて、私は講談社の旧友N氏をわずらわして探ってみたが、目下まだ定かではない。二十首のうちから採録された五首は、『冬の海』の中でもやはりよい。

十二月八日午前十時の録音にて九龍へ向ふ兵の靴音 (昭和十六年)
眼の限り青き麦生の一ところげんげ田あるを妻の指さす (同十八年)
障子よりさせるタつ陽明々と蒼き先生の御顔にぞ映ゆ 和辻先生 (同年)
妻の中に醒めそめける新しき命を吾児と呼ばむ日待たる (同十九年)
紛争は遠くなりけり並木路にけさ朝需のたちわたりたる (同四十四年)

右の第四首までと第五首の聞には、四分の一世紀の空白がある。その聞に日本古代史の研究は長足の進歩をし、井上さんは自他共に許す牽引車であった。井上さんにも私にも恩師である坂本太郎先生の言を借りれば、「あの精密機械のような堅固で敏密な論文」が量産された期間、歌作は中断されていたのである。それ以前の戦争と療養生活から生まれた歌作が復活するのは、「紛争は」の作が端的に語るように、大学紛争に続く大病を機としてであった。
『冬の海』一巻を通読して、不遜ないい方を許してもらえば、私は井上さんの打ち込み方と力量を見直さざるを得なかった。無論私に短歌の批評力があるはずもないから、そんな者に褒められても故人は苦笑されるだろうが、何よりも作者の心のたけがまことに正直に出ていることに感心した。感動はその一点に尽きる。

国民の良識舵をあやまらず安定えらび自民党勝つ (昭和五十五年)
名門のコンプレックスならむ日本一の学者たらむと母に誓ひぬ (同)

いかな私とて、これらを佳作とするわけではない。むしろ集中最もレベルの低いものと思うが、その中に心境がいともあけすけに吐き出されている所が面白いのだ。あの天才学者が歌壇の時外でこんな作を書きつけていたという事実を、かの王朝貴族にとって和歌が「米の飯」のような必需品であったという持論と重ね合わせてみる面白さといってもよい。

ところで、戦後の古代史学のリーダーとして東の井上さんと並ぶ西の学者に、直木孝次郎氏がいる。

直木さんも四年ほど前、還暦の自祝に『山鳩集』と題する家集を編まれた。題名は昭和十五年に北海道を旅した時の作、

旅十日今日も山行く淋しさを耐へつつあるに山鳩の暗く

から命名された。短歌二百余首、長歌一首、詩二編。右の一首に牧水への心酔の志向を看取することは容易であろう。直木さんの歌作も、旧制一高生から予備学生を経て敗戦直後までと、二十年余り後朝鮮・中国への旅で復活した後とに分かれている。その中断の聞に大量の論文が蓄積されたこと、井上さんと同様である。
直木さんは「あとがき」に、「読んで下さる方にはご迷惑でも、一度はかういふ本を作りたかったのである」と記し、私は「言ふならば文学青年崩れである」と白期された。この所感は、同じく還暦を機として私家版の句文集『散木抄』を編んだ私には、身にしみて共感される。井上さんの『冬の海』も、刊行を期して、和綴の和紙に丹念に記されてあったのだという(植木正三氏の政〉。
その昔の高回保馬・南原繁、いまの所三男氏らを引き合いに出すまでもなく、こうした例は意外に多くあるのかも知れない。平泉澄先生は長歌・短歌を詠まれたし、坂本先生も毎年の賀状にかならず歌を記される。しかし現代の「短歌」というものは、それらと全く無関係な所で、おそろしく専門的に制作され享受されているのである。多分それだからこそ、文学的・芸術的たり得ているのだが、私のように王朝の「作者」(あえて「歌人」と限定的に呼ばない)の腰折れとも見られていたものに早くから関心を寄せ、文化史の史料として利用して来たつむじ曲がりには、現代の非歌人の実作にも輿味をいだかざるを得ない。その種のものを発掘するのは、ゲテモノ趣味となるのであろうか。しかし、「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」と古人はいった。井上光貞氏の遺作に感銘した勢いで、勝手な感想を書いた。

螢からの手紙

ぬのこ 一 此度御
返申侯
さむくなりぬ
いまハ壁も光
なし こ金の
水をたれか
たまはむ
     螢
閑難都起
――――――――
およしさ ほたる

山田屋

これはほぼ二百二、三十通現存しているという良寛の手紙の一通である。拝啓のぶれば的な、固苦しい決り文句をめったに用いない、奔放自在な良寛書状の中でも、ことにくだけた一通である。良覚は「壁」と名乗っている。宛名の「およしさ」という女性は、脇に記された「山田屋」という家の女中さんか何かであった。その人から借りてもどった「ぬのこ」――もめんの綿入を返すにつけて、一首の歌をそえた。寒くなって光る元気もないこの壁に、「こ金の水」を恵んで下さいというのだ。「金」という漢字の右の「かね」というルピは、良寛自身が振ったもの。ご丁寧にルピを振ったのは、これが相手に読めなくては目的が達せられぬからで、その目的というのは「こ金の水」つまりお酒の無心である。
二百何十通かの良寛書状には、物を恵まれた人への礼状が圧倒的に多い。米、餅、みそ、油、山菜、野菜、梅干、納豆、茶、菓子の類、ふとん、ぬのこ、蚊帳の類、筆、紙、墨の類など、一物も貯えぬ草庵生活者の境涯がしのばれる。しかし、淡々と無欲に徹して、

焚くほどは風が持て来る落葉かな

と詠んだ良寛のこととて、無心の手紙は礼状に比べてまことに少ない。
『良寛の書簡』(BSN新潟放送刊)に寄せた一文の中で吉野秀雄氏は、「良寛は物をねだったが、それは最低生活の必需品であるのを常とする」といい、「白雪議」という落雁様の菓子くらいが、やや賛沢といえばいえるもので、これを限界として「酒とか煙草とかをねだった手紙はいまだ一通も見たことがない」と書いている。吉野さんに異を立てるわけではないが、「およしさ」に「こ金の水」をねだったのは、無欲な良寛も時には酒の無心に及ぶことのあった例証である。そんなことが出来たのは、この女性が良寛を「壁」などと仇名で呼ぶ、気の置けない人柄であり、気楽な間柄だったからであろう。

「――さ」という敬称は、.良寛の住んでいた中越地方での常用語である。「――さま」でも「――さん」でもない、「――さ」である。良寛も「良寛さ」と呼ばれていた。実は私の母も淑(よし)という名なので、嫁入り前には「およしさ」と呼ばれたようで、私は少年時代に伯母などがそう呼ぶのを聞いた記憶がある。それで何の理由もなく、私はこの山田屋の「およしさ」に母のおもかげを重ね合わせたくなる。

この文を書こうとしている所へ、まことにタイミングよく谷川敏朗著『良寛の旅』(恒文社刊〉という小冊子がとどいた。写真をふんだんに入れて、島崎・与板・出雲崎・寺泊・国上などから、若き日の良寛が修行した倉敷市の円通寺その他まで、遺跡を手際よく案内してくれる。そこで、とりあえずこの本を受け売りするが、山田家は長岡からパス一時間ほどの与板町の素封家であった。村役を勤め沼造を営み、当主は杜皐と号する風流人であった。
良寛は折々山田家を訪れ、「およしさ」を含めて家族に歓待されたようで、杜由平にあてた書簡は多くのこっている。「およしさ」が「ほたる」と仇名したのは、良寛が托鉢の帰り、日暮れに立ち寄っては、疲れを少量の潜にいやして生き生きと帰途についたからでもあったか。これは私の想像である。

のどかな一幅の絵であるが、良寛はそうのんびりした一面だけを見せてくれる人ではない。山田杜白半に宛てたもう一通の手紙を例に引こう。

地しんは信に大変に候。野僧草庵ハ何事なく、親るい中、死人もなく、めで度存候。
うちつけにしなばしなずてながらへて
かゝるうきめを見るがはびしさ
しかし、災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるム妙法にて候。

かしこ

臘 八
山田杜皐老
与板

良寛

これは文政十(一八二八〉年十二月八日付の手紙である。前月の十二日、与板にすぐ近い三条を震源地とする直下型大地震が起こった。被災地は与板・出雲崎など十里四方に及び、千数百戸が壊れたり焼けたりし、二百余人の死者を出した。良寛はこの年七十一歳。すでに国上山の五合庵を降りて、与板の隣村島崎の素封家木村家の邸内に、老の身を寄せていた。
山田家も良寛の草庵も大揺れに揺れ、命を落した人も近くにいたようである。良寛はまず自身の無事を告げ、ながらえてこんな憂き目を見たことを悲しんだが、「しかし」として胸をえぐるような語を書き付けた。災難に逢う「時節」には逢うがよく、死ぬ「時節」には死ぬがよいのだ、これが災難をのがれる「妙法」であると。
この語を、たとえば当時の被災者たちが耳にしたら何といったろうか。あるいは現代のヒューマニストや社会福祉家が耳にしたら何というだろうか。聞きようによっては、冷酷無残とも無神経とも取られかねない。さすがに良寛にしても、たとえば三条のある寺の老僧に宛てた手紙などでは、安否を尋ねて型のごとく神妙な言を連ねている。だから、「しかし」以下は、杜皐という特別に心許した人だからこそ洩らした本音なのであろう。
眼のあたり惨状を見て、禅僧良寛は本来の面白に立たざるを得なかった。「災難に遭時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候」とは、修行によって得た平常心である。強がりでもなく、惨事から眼をそむけるのでもない。古稀を越えた良寛の自然法爾の心境の、淡々たる告白である。「自然法爾」は親驚の晩年の有名な法語だが、良寛にもこの四字を記した書跡がある。

それにしても、手紙の受取人はこれをどう読んだか。与板の被害もひどかったようで、名望家で資産家の山田家は被災者・窮民の救済に忙殺されていたと思われる。良寛の透徹した禅機に感銘する余裕は、はたしてあったかどうか。もしかしたら杜皐も「およしさ」も、「やれやれ、まあ、良寛さは――」と、あきれた表情を浮かべたかも知れない。

見つけそこねた史実

伝説の旅人として、また愛唱すべき歌人としての西行は有名であるが、中世の思想・文化をになった遁世者の典型としての実体を歴史的にとらえることは、未開拓といってよい。そこでこの数年、関心をよせて来た。
あるひまな日に、『除目申文抄』というものを何とはなしに見ていたら、平安末期の「申文」(任官の申請書〉の中に、「藤原義清丸」が「内舎人」になりたいと申請しているのが見つかった。これはまさしく十五歳の西行が官界に船出しようとした形跡だが、何にせよ和歌にも仏教にも縁のない法制史料のこととて、従来だれの眼にも触れなかったものらしい。もっとも、」の時義清の希望は通らなかったらしく、別人が任官した。
この発見はまぐれ当たりというか、怪我の功名というか、ともかく学会で報告した。西行はその後「兵衛尉」になったのだが、その任官年時は不明であると論文に書いたところ、篤学の若い研究者から来信があって、『長秋記』のおしまい
の辺に「康清の子」を兵衛尉に任じたとが、これは西行の事ではないかと教えられた。全くそのとおりで、康清とは西行の父なのである〈大から、この公家日記の記事は、歳の西行が鳥羽法皇建立の御堂「勝光明院」の造営費用を献上することを代償として、首尾よく兵衛尉にありついた証拠である。
私はおおいに感謝したが、それにしても『長秋記』は調べたはずなのに、なぜ見落としたのかと、書物を取り出してみた。問題の個所の二、三ページ前に、「4/23」とメモした紙片がはさんである。たぶん某年四月二十三日ここまで読み、あと数頁で読了するところでなにか邪魔が入って中断したのだが、論文執筆の時には、すでに調べおわったものと思い込んだのであろう。宝はその鼻先にもれていたのである。

私などの学聞は高次元な議論とは無関係で、こんな些末な事実の詮索に明け暮れて、一喜一憂しているだけの事である。

諌言のむつかしさ

特に筆不精な人は別として、手紙を書くことは、人生のたのしみの一つである。しかし、例外も無いことはない。何か失態をしでかして、やむを得ず書く詫び状などは、その一つであろう。
三蹟のひとりとして有名な藤原佐理は、芸術家肌で、きちょうめんな俗事が苦手であった。それで、しばしば詫び状を書く破目になる。因果なことに、その詫び状がすばらしい名筆なものだから、珍重されて後世ながく伝えられることになった。御物(皇室所蔵)の「離洛状」の、奔放をきわめた筆跡をほれぼれと鑑賞された方は多いと思う。あれは大宰府へ赴任する道中で、関白への挨拶をすっぽかして来てしまった失礼に気付いて、取りなしを頼んだ手紙である。それも本州の西端の赤間関まで来て、あわてて書いたものだから、うまい字を書こうなどという匠気は毛ほどもない。その一気の筆が千古の絶口問となったのだから、天才というものはこわい。
例外の手紙はまだある。やむにやまれぬ激情にかられ、利害損得をかえりみず筆を執った諌言の手紙も、それである。何といっても諌言の本場はお隣りの中国で、歴史上有名なものが、諸葛孔明の「出師の表」をはじめとして数多くある。君主や上司の逆鱗にふれる覚悟がなければ書けぬものだから、それらの文章には格調高い悲壮美がただよう。
菅原道真の「昭宜公に奉る書」は、わが国の諌言の手紙の代表的なものだと思う。それは、平安時代の政府役人のハンドブックである『政事要略』という書物に入っている。昭宣公は時の権力者藤原基経のことで、基経を諌める手紙を書いた時、道真は讃岐守であった。内容は、「阿衡」というこ文字の解釈をめぐって起こった政治上の大混乱に対して、鍵をにぎる基経に強硬方針の変更を求めたものである。
阿衡問題の経過をかいつまんで述べると、こうである。仁和三(八八七)年の秋、老齢の光孝天皇が崩じ、第七皇子の源定省が皇族に復帰して位を継いだ。宇多天皇である。これより先藤原基経は、光孝天皇を擁立した功によって、老天皇から政治の全権をゆだねられ、絶大の権力をふるっていた。ただし、位を継いだ宇多天皇がこの権力をひきつづき基経に与えるか、あるいは二十一歳の血気にまかせて親政をおこなうか、なりゆきや如何にと、貴族一同が固唾をのんで見守っていた。
その中で出された詔には、政務すべてを太政大臣(基経)に「関り白さしむ」とあった。いわゆる「関白」の語源である。ところが、基経が儀礼的にこれを辞退したのに対して、二度目に出された詔には、「よろしく阿衡の佐を以って卿の任とすベし」という、別の言葉があった。これが問題の発端である。いうまでもなく、詔勅は君主が臣下に与える手紙の一種だから、考えてみればこの一件は、一通の手紙が日本歴史上に起こした最大の事件である。基経側近のある学者が、「阿衡という中国語は、名誉だけで実権をともなわない地位を意味するのです」と、おためごかしに注意した。そうか、さてはというので、基経は自邸にひきこもって政務を拒否した。いわば総理大臣のストライキだから、国政はみるみる渋滞する。
基経のねらいは、この詔の執筆者である橘広相という学者の責任を聞い、これを失脚に追いこむことによって、広相を信任している新帝を屈服させることであった。宇多天皇は祉をしのんで詔書を書きかえたが、基経はあくまでも広相を刑に処しようとした。その意向におもねる法律専門家たちの出した結論は、広相を詐偽罪で遠流にするという、極度にきびしいものであった。道真の諌言の手紙は、そういう大詰めに直面した時点で書かれたのである。

「昭宣公に奉る書」は、約千八百字の長文である。道真は史上まれに見る名文家だから、原文を引かないと感銘がうすいが、どうにも難解すぎるから、下手な口語訳ですますほかはない。

――信じて諌めないのを「諛」(へつらい)といい、あやまって改めないのを「過」(あやまち)といいます。私はあなたに、先年耳ざわりのいい意見を申し上げたことがありますが、あれは「誤」でした。今度は黙っていられないので、「狂言」を進呈します。これは「過」でしょうけれども、どうかお許しいただきたい。さて、私はこの程讃岐から上京して、ある人から「阿衡」について情報を得ました。心痛で、居ても立ってもいられません。――

道真はこう書き出し、その心痛は二点あると説く。

――第一はじぶんたち文人の仕事のためです。およそ文章を作る場合は、かならずしも古典の意味を正確に引くものではなく、いわゆる「断章取義」で、元の意味を無視して都合のいいように古語を応用するものです。「阿衡」と書いた広相も、別にあなたを失脚させようと「異心」を挟んだわけではありますまい。それをとがめられ、こんな事がもし先例となったら、これから後文章を作る者はみな罪をまぬがれないことになります。その上、上は公卿から下は女や子供まで、知るも知らぬも広相の事を口にしている。これでは、世論が寄ってたかつて袋叩きにしているのです。「文章これよりして廃れむ」、これを文人のひとりとして心痛するのです。

この言葉は、時代をとび越えて現代の世論やマスコミに対する頂門の一針としても、通用するであろう。「一犬虚に吠え、万犬実を伝う」といった事例は、今も土日も多い。寄ってたかつての「いじめ」は、何も学校だけの事ではない。次に道真は、心痛の第二点は太政大臣ご自身のためですとして、広相にはいまの天皇に対して「大功一と至親三」があることをお忘れなさるな、と次のように力説する。

――「大功一あり」というのは、宇多天皇が臣下から皇族に復帰して即位する異例のことを、
あなたが反対したにもかかわらず、広相が奔走して実現させたことです。また「至親三あり」とは、広相の娘がすでに二人もの皇子を生み、いまも寵愛をうけ、このきさきを天皇に進めた阿偉藤原淑子が後宮に重きをなしている、そういう、天皇と広相の特別に親しい間柄のことです。

実はこの淑子は、基経の実の妹である。兄基経がいかに政府や役人を牛耳っていても、いざとなれば、宮中で天皇を支えている妹の力にはかなうまい。道真はそう見たのである。こういう政治の機微も、現代の政治家の病気や死などをめぐってよく見られる現象であろう。道真は第一点では正面から、第二点では裏面から、別の言葉でいえば、第一点では論理を尽くし、第二点では情にからめて、いやというほど基経の急所を突いたのである。

阿衡の紛糾は、基経がむずめ温子を天皇の後宮に入れることを条件にして(それはおそらく尚侍淑子のあっせん)広相を免責したことによって、急転直下決着した。実はこの妥協の成立に、道真の諌言がどれほど役立ったかという点は、どうも明白ではないのだ。あるいは局外者の道真が手紙を書くのに苦心している聞に妥協工作が進み、諌言は間に合わなかったのかも知れない。しかし、坂本太郎博士が、「かりに解決後に出された文章として、実効はなかったとしても、翻意後の基経を心理的に支持した功は偉大であったと思われる」といわれたのは、まさにそのとおりであろう。
百年ほど後の藤原公任の『北山抄』には、広相が死後道真の夢にあらわれ、感謝を述べたという伝説がみえる。基経や広相もさることながら、面を犯して諌言を呈した道真の気骨をだれよりも高く評価したのは、窮地に立っていた宇多天皇であった。その後道真が天皇に信任され、異例の昇進をしたのはよく知られている。
しかし、その異例の昇進が晩年の大宰府追放の悲劇を招いたのだから、人の禍福は一筋縄では計れない。実は追放される二か月ほど前、道真は三善清行という学者から、一通の諌言の手紙をもらっていた。「易によって占うと、近く天下に大変が起こる。あなたはこの辺で、異常な栄達をしたおのれの分を知って、引退されるがよい」という、痛烈な辞職勧告であった。道真がこれに従わなかった事情は、もう書く余白がない。
思えば、諌言もむつかしいが、諌言を容れるのは、もっとむつかしい事なのであろう。

乱世の自由人西行

名歌と伝説

これから西行について二回にわたりお話しするのですが、あまり精密に順序立てては、かえって堅苦しくなりますので、思いつくままというようなやり方でいきたいと思います。今日のところは西行の前半生、次回に後半生をお話しします。
西行法師という名前は、日本の歴史上の人物の中で、最大級にポピュラーな、知らない人はない名前かと思います。そこで、この人物がどうしてこのように誰にも名前を知られるようになったのか、という理由から考えてまいりましょう。
歴史上有名な人物と申しますと、たとえば藤原鎌足とか源頼朝、あるいは信長、秀吉、家康といった、一つの時代を切り開いたような人の知名度が高いことは当然ですが、西行は歴史を動かすような大事業をしたことは、ご承知のようにまったくないわけで、それどころか出家して、うき世をよそに自分の好むままに一生を送ったと見られている人です。そういう人物が、なぜ八百年後の今日もこれほど有名なのかということを、私は三つの点で考えてみたいのです。
一つは、西行の遣した和歌が愛唱されたことです。この和歌はどなたも何首かは御存じかと思います。二つ、三つ挙げてみますと、

年たけてまた越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山

これは晩年の、七十歳に近いころの作品です。東海道は海岸を通る平らな道ですが、その中に所々高いところがある。その一つが浜松に近い小夜の中山で、難所の一つです。これは西行が陸奥平泉の藤原秀衡のところへ出かける途中で、二十代の頃にもここを通ったことを思い出して詠んだ歌です。
「命なりけり」という、非常に心のこもった表現がございまして、いろんな人が人生に対して同じような感慨を催すものですから深い共感を呼び、西行歌の中でもよく知られていると思います。その「小夜の中山」のある東海道には、富士山がそびえております。

風になびく富士の煙の空に消えて 行方も知らぬわが思ひかな

という歌も同じ旅で詠みました。そこで西行が富士山を見上げている姿、いわゆる「富士見西行」が好んで絵にかかれております。墨染の衣を着て、笈を背負って、錫杖を突いて富士山をながめている姿です。そういうことも西行がポピュラーなゆえんかと思います。
それから、もっと有名な歌が百人一首にございます。

嘆けとて月やは物を思はする かこち顔なるわが涙かな

これは恋の歌です。月を見ているとそれが恋人の顔にみえ涙があふれでくる、はてきて何でこんなにも恋しいのか、という歌です。坊さんである西行に情緒纏綿たる恋歌があって、それが百人一首に入っているのはいぶかしいことですけれども、これもまた西行の一面です。百人一首のカルタは、正月に日本中で読み上げられますので、」れも西行を有名にした材料の一つであろうと思います。
それからもう一つ、あるいはこれが最も有名かもしれませんが、

何事のおはしますをば知らねども かたじけなさの涙こぽるる

という歌です。「おはしますかは」とか「かたじけなさに」と記憶されている方もありましょう。江戸時代の初めに西行の家集が木版本になりましたが、その中に入っております。西行は伊勢の神宮にお参りして、神威のありがたさに打たれてこう詠ったのです。明治維新以前は神と仏はきわめて密接な関係で、神社は大体お寺さんがお守りする、いわゆる神仏習合が通例でしたけれども、伊勢神宮だけはきびしく仏教を拒みまして、坊さんはお参りもあからさまにはできなかったのです。そういう伊勢の神様を坊さんである西行が詠って、そんな歌が世に伝わっているのはなぜでしょうか。
しかもこの歌は、西行が作ったかどうか実ははっきりしないもので、その木版本以前の、中世の西行の家集には、この歌は載っていないのです。したがって、何かの間違いで西行の作とされたのではないか、という疑問も濃いのですが、しかし西行の歌として大変有名なのは疑いもないことです。次に申し上げることになろうかと思いますが、西行は伊勢信仰と深い関係がありますから、思想的には西行作に近いと私は思います。
こんなふうに、西行には有名な歌が多くあります。西行が亡くなってすぐあとに、『新古今和歌集』という勅撰歌集がつくられましたが、西行はそれに九十四首も採られました。『新古今和歌集』に一番多数採られた歌人です。これは、陣頭指揮でこの勅撰集をつくられた後鳥羽院がいわば西行ファンで、西行を最も高く評価しておられましたので、おのずから筆頭歌人とされたのですが、この歌道の名声は後世の西行評価を決定づけた第一の要因であろうと思います。

ところが、ただそれだけではないのです。西行に関して数多くの逸話が伝えられていることも、皆さんはご承知ではないかと思います。たとえば、彼は二十三歳のときに出家しますが、このときの様子として次のような話が伝わっています。西行は北面――これは上皇の身辺に密着した秘書官といった役柄です――として勤めていました。ある日友達と一緒に役所から下ってまいりまして、また明朝ご一緒にと約束して別れた。そして、翌朝誘いに寄ったところが、門のところで人々があわただしく動いている。どうしたのかと聞くと、殿は昨夜亡くなられたという。これを聞いて西行は人生の無常を痛感したという話です。そして出家しようという決心を固めて、ある日家に帰ったら、四歳になる娘が、お父さまお帰りなさいと喜んで出迎えた。たまらなくかわいいと思ったけれど、待て待てこれこそ煩悩のきずなだと思って、取りすがる子を無情にも縁から蹴落して、嵯峨の聖のもとへ走ってもとどりを切った、という話もございます。これらは、西行の出家曹として世に聞こえた話です。
それからまた、先ほど申しました「年たけて」の歌を詠んだ旅で、平泉へ行く途中鎌倉に立ち寄りました。その年は文治二年ですから、平家が壇ノ浦で誠いひた直後です。そのとき鶴岡八幡宮の境内で頼朝に見つけられて、幕府の屋敷へ連れていかれ、懇切に兵法を質問される。鎌倉幕府の歴史を書いた『吾妻鏡』に、「秀郷朝臣以来九代の嫡家相承の兵法」を伝授したと書いてあります。秀郷は俵藤太という、ムカデ退治の伝説で有名な武将ですが、その祖先から西行は九代目で、しかもその嫡流です。その家に九代伝わった兵法を頼朝に講義したわけです。
頼朝と申しますと、征夷大将軍で武士の中心人物です。その人物に武士の表芸の兵法を教授したというのですからすごい。そして、頼朝は徹夜でその講義を聞き、部下に詳細にノートさせ、お礼に銀の猫をくれたのですが、西行は翌日幕府の門前で遊んでいた子供にそれをくれてやって、瓢然として陸奥へ旅立ったと書いてあります。この逸話もご存じの方が多かろうと思います。

この二つの逸話を比べましでも、片方は二十三歳のときに切迫た無常観で頭を丸めた人、片方は六十九歳のとき、つまり出家してから五十年もたつて、なおかつ先祖伝来の兵法を忘れずにいて頼朝に講義した人。この二つの逸話は両極端ですが、その中聞にいろんな逸話がなおたくさん伝わっています。そういう両極端があると、一体西行という人は何が本当の面白なのか、だれしも当惑させられるのではないかと思います。とにかく逸話が多くて、そのために西行はポピュラーになっているわけです。

それから第三番目に、これも日本全国にと申しあげてよろしいかと思いますが、いろんな土地に西行の遺跡が残っています。そう申しあげますと、自分の町にもある、自分のいなかにもあるといわれる方が多いと思います。
代表的なものを二つ、三つ拾ってお話ししますと、京都に通称「花の寺」という寺がございます。正式の名前は「勝持寺」ですが、桜の名所ですので、おいでになった方もあろうかと思います。この「花の寺」は、西行が出家した場所だと寺では伝えています。西行の木像などが安置されていまして、

花見にとむれつつ人のくるのみぞ あたらきくらのとがにはありける

という歌はここで、詠んだのだと、寺では言っております。
西行は花と月が大好きで、西行の名歌の大きなピーグは、桜の歌と月の歌です。その中でちょっと異色なのはこの歌で、花は実にいいものだけれど、花見にたくさんの人がやってきて騒ぐのでそだけがマイナスだというのです。この歌は、西行の家集である『MT集』にあり、西行の歌であることは間違いないのですが、しかし「花の寺」でこの歌が詠まれたという証拠はまったくない。『山家集』にはそういうことはまったく書いていない。お寺さんには悪いのですが、西行の出家したのはおそらくここではあるまい、この歌もそこで生まれたわけではないだろうと思うのです。ただ、いつのころからかそういうふうな伝えができ、全山に桜の木が植えられ、寺伝の真偽はしばらく別として、お出でになれば楽しいところです。寺伝そのものはどうやらあとでできたものでしょう。そういうところが各地に多いのです。
東京近辺では、大磯に「鴫立庵」という遺跡がございます。お恥ずかしいのですが、灯台下暗しで、私は「鴫立庵」をいまだに訪ねたことがございません。この春出かける一歩手前までおぜん立てができたのですが、庵主さんのご都合が悪くて延ばしまして、まだ伺っておりません。この「鴫立庵」には、ここに西行が庵を結んでいたという伝説があります。それはこういうわけです。西行の歌に、

心なき身にもあはれは知られけり 鳴立つ沢の秋の夕暮

があります。意味は説明の必要がないほど明快な歌です。これは確かに西行の作品で、しかもみずから会心の作と考えていたようであります。事実また名歌ですね。『新古今集』にはこの歌をふくむ三首の「秋の夕暮」の歌が並んでおりまして、その一つは、

さびしさはその色としもなかりけり 損立つ山の秋の夕暮

これは寂蓮法師という人の歌です。それからもう一つは、

見渡せば花ももみぢもなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮

これは藤原定家の歌で、この三首が三タの歌として有名ですが、しかし、西行のこの名歌が大磯で詠まれた証拠はまったくない。『新古今集』や『山家集』を見ましでも、この歌の詞書には「秋、ものへまかりける道にて」と書いてあるだけです。ある年の秋にどこかへ行く途中でというだけで、固有名詞はまったくない。したがって、これまた後世の誰かが言い出した伝説だと思います。
ただ、その言い伝えも大変古くて、安土桃山時代には、もうここで鳴が飛び立って西行が歌を詠んだということになっていたようです。しかし、室町以前にはさかのぼらないように思います。
それから、もう少し北へ参りますと、那須高原に「遊行柳」というのがあります。これは私も行つたことがございます。田んぼの真ん中に柳が一本植えられておりまして、a-三十坪くらいの芝生の中で柳が風にそよいでおります。その「遊行柳」というのは、謡曲の題名から来たもので、ご存じの方も多いと思います。旅僧の前に柳の精が出てくるという筋ですが、その中に、

道のベの清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりけれ

という西行の歌が引用されております。そして詠まれた場所はまさにここだ、ということになっている。柳の木が枯れると誰かが植え継ぎ、今ある柳は何代目かわかりませんが、あまり大きな柳ではありません。たぶんこの部屋の天井までは届かない、もっとずっと小さい柳が植え継がれているというわけです。
このように見てまいりますと、全国至るところに西行の足跡があるといってよろしい。あとで申し上げますように、実際に西行が行った所もありますが、行かないところにも遺跡ができております。しかも、もっともらしい逸話の伝わっている遺跡はまだしもなので、たとえばこの松の木に昔西行法師が衣をかけたとか、この石に腰かけたのだとか、あるいはこの村に西行がやってきたけれども、子供と問答をしてうまく言い負かされたので、頭をかいてここから戻ったのだという、いわゆる「西行戻し」、「西行戻り」といったパターンの話に至つては、日本全国にくまなく分布しているのです。これは早く柳田国男が注目しています。

以上申し上げましたように、西行はその和歌、逸話、遺跡という三点で、世にあまねく知られております。ところが、この村に西行がやってきてどうしたこうしたというように語り伝えた民衆は、西行の名歌とはほとんど付き合いがない。西行が歌詠みだということさえも知っていたかどうか。反対に西行の歌をこよなく愛する人たちはそうした民衆とはちょっと違う。言ってみれば、代々のインテリだったと思います。この対照的な見方の中から、西行の統一的なイメージが浮かんでくるかと申しますと、これは無理ではないでしょうか。ちょうどあの福笑いのように、全然バラバラなイメージが伝わっているのではないかと思います。実体は何であったかどなたにもよくわからないままに、名前だけがポピュラーになってきたのが、西行という人の特徴かと思います。
そこで確実な史料を探して、新たに西行の伝記を組み立てると、どういうことになるでしょうか。
ごく大ざっぱに申しますと、西行は二十三歳で出家するまでは武人として仕え、先祖代々の兵法を継いでいた。しかしながら、源平両氏のいずれにも従属していたわけではなく、実際に合戦をしていたわけでもない。そして二十三歳で遁世したあとの五十年間は出家の身分でしたが、ある特定の寺に従属していたとか、一つの宗派を開いたとか、そういうわけではありません。それから、歌人ではありましたけれども、いわゆる歌壇とはまったく縁がなかった。当時の有力歌人は、宮廷とか貴族の注文を受け歌を詠んで進める、それを集めて歌合という遊びが行われます。歌を左と右に組み合わせ、相撲のように左が勝った右が負けたと勝負を競うのです。そういう催しが流行して、セミプロ、あるいはプロの歌人がたくさんいたわけです。ところが、西行は、没後『新古今集』の筆頭歌人になったぐらいの人ですから、生前から歌のうまさは世に知られていましたけれども、彼は歌合にただの一首も歌を差し出していないのです。つまり、歌を売りものにはしなかったということです。したがって、当時の歌壇の中心人物である藤原俊成とは非常に親しかったし、相互に尊敬し合っていたけれども、歌人たちとのつき合いからは一線を画しておりました。
そうしますと、西行は武人兼僧侶兼歌人ですけれども、しかしまたそのいずれでもない、ということになろうかと思います。こういう存在をどう名づけたらよいか。現代的な言葉で申しますと、人と申しますか、あるいは知識人、文化人といった範暗に入るかと思います。しかし、現代ならばそういう人もたくさんいるわけですが、なにしろ時代は遠い中世の初期ですから、こういう特異な存在をどのように社会的に位置づけたらよいかということが、根本の問題であろうと思います。

日記にみる悪左府頼長

国文学研究資料館にはだいぶ前に伺ったことがありますが、面白一新した立派な施設を拝見して、びっくりしております。
さて、院政期の日記ということでお話をするわけですが、十二世紀の院政期は、公家の日記というものが私ども歴史学の方で主要な史料になって来る時期ですので、面白い日記がいろいろあります。
中でも双壁といっていいのは、『中右記』と『台記』かと思います。短かい時間にあれもこれもということになりますと、結局何も申し上げないに等しいことになりますから、」こでは『台記』にしぼり、それも『台記』全体を解説するというのではなくて、いわば私が『台記』を読んで面白く感じた所をピックアップして、断片的にお話申し上げるほかないだろうと、」う思っております。
この『台記』及び著者藤原頼長については、宮内庁の書陵部におられる橋本義彦さんが最もよく調べられて、『藤原頼長』という伝記がございます。これは吉川弘文館の「人物叢書」の一冊で、小型なものですから、これをご覧いただけばよいでしょう。それから『台記』そのものにつきましでも、橋本さんの『平安貴族社会の研究』という名著の中に「中右記と台記」という論文がございます。このようなものが、全体をお考えいただくのにふさわしい業績と思います。従って解題的なことは一切省略します。
先ほど 『中右記』と 『台記』が院政期の日記の中では最も 名記ではないかと申仕上げましたが、『中右記』の方はそれを書いた中御門右大臣宗忠という人が実に資性温厚な、そして公事に練達の人で、白河院政期五十年にわたって書き継がれたこの日記は、いわゆる有職故実の史料としては並ぶもののないものです。ところが頼長の方は、そうした公卿学と申しましょうか、あるいは有職故実と申しますか、そういうものを自分の本領と考えていなかった型破りの人物で、その代わりに頼長が最も心血を注いだのは、中国の学問です。しかも経と史の中でも経学に全力を注ぎました。
そういう異色の志向を持っていたということが、ひいては彼が保元の乱であのような非業の最期を遂げることにも繋がって行くわけで、まことに時流とかけ離れた人でした。従ってこの 『台記』という日記は、公家日記というものが儀式の記事を長々と記して退屈きわまるものである中にあって、異例の文学的興趣に富んだ、つまり頼長の人間性というものが躍動している、そういう特徴があると思います。
この頼長の人間的特徴を、たとえば 『今鏡』は、「公私につけて、何事もいみじくきびしき人に ぞおはせし」という風に批評しております。それからまた、頼長の甥に当たる慈円の 『愚管抄』には、「コノ頼長公、日本第一ノ大学生、和漢ノ才ニ富ミテ、腹悪シグ万二キハドキ人ナリケル」、と非常に端的な批評をしております。「悪左府トイフ名ヲ天下ノ諸人ツケタリケレ」とも書かれています。『保元物語』にも 「悪左大臣股」と言っております。
「悪」とは道徳的な罪悪をいうのではなくて、型破りに物すごい事をやる人間といった意味で、悪源太義平とか悪七兵衛景清といった人物の悪も、それに当たるわけです。そうした人物像を、頼長の『台記』そのものの中 に探るのがよいと思いますので、若干の史料のコピーを館にお願いして用 意しました。それを順を追って読んで、説明したいと考えております。

史料の第一番目は、『台記』の康治元年十二月三十日の条。除夜の明け方に及んでの感想ですが、この年頼長はまだ二十三歳です。

予、柳ずの経史に遊ばせ、思を我朝の書記に停めず。何りて抄出するところ殊に委曲ならず。

「抄出するところ」とは、朝廷の行事に関しての先例を自分の勉強のために抜き出したことを指しているのです。つまり自分は経史の勉強に専念しているものだから、日本のそうした書物についてはあまり関心がない、そこで今必要なところを抜き出したけれどもあまり詳しくやる気がない、そう言っているのです。つづいて、

子孫また金経旧史を好む者はこの限りにあらず。然らざるものはすみやかに倭国の旧事を習ひ、世叡の忠節を慕ふベし。

子孫も倭国の旧事、すなわち日本国の古い伝統には習熟しなければならない、そしてひまわりの花が日に向かうように、公事を忠実に勤めるがよい、けれども頼長自身のように儒学を好む者はこの限りでないと、こう言っております。つまり、儒学の方が遥かに優れているのだというごとを強調しているわけです。さらにその後が面白いのでして、「総竹和歌に至りては、勧むるところにあらずといへども、強ひて季べからず」と書く。和歌や管弦は当時の公卿にとっては必須の教養なのですが、それは別に勧めもしないが禁じもしない。こう突き放しているのです。ちなみに、その頼長の遺子師長が等の琴の大家になるのですから、世の中はおもしろいものです。次に「鷹犬牛馬酒色等の類においでは、深く以て之を禁ず。」鷹狩りや競馬といった娯楽、それから飲酒や女色、そういったものはやってはいけないと子孫を戒めています。
その後のところに、学問に志した由来が書いてあります。

予、少年に在りては、の教命に随はず。鷹を臂にし馬に鞭うち、山野を駈馳す。時醸電逸し殆んど命を失ふに及ぶ。仏神の加被に依りて、僻かに身を存すと離も、顧りみれば庇猶在り。鏡を引きてこれを見るに、弥増孫の誠忌を賠す。

つまり少年の時分には父忠実の教えに従わず、スポーツばっかりやっていて、落馬してすんでのことに命を落とすところであった、その傷跡は今も残っているということです。そういうやんちゃな若者であったが、後に学聞に志したというふうに書いてあるので私はこれを見ますと、平安時代の初めの、小野重の逸話を思い出すのです。小野重がやはり、父親の容守に随って陸奥へ参りまして、山野を駆け廻ってばかりいた、そして嵯峨天皇に、あの好学の容守の子ともあろう者が何たることかと酷評され、そこで学聞に志して才能を発揮するに至った、という逸話がございます。似たような人物です。つまり頼長という人は、ある時翻然として学に志したのですが、本来は非常に気力も体力も旺盛な野性的人物であったということが、これによって分かるのです。
しからば頼長がどのように経学に励んだかと申しますと、これは『台記』の中に自分の勉強の成果、つまり読書リストを作っておりまして、それによって、全貌が分かるのです。なお『台記』はご承知と思いますけれども、明治時代に『史料大観』という叢書で活字本が出、その後に『史料大成』という叢書でまた活字本が出来ました。しかし頼長の日記はかなり散逸しておりますので、それを他の人が集めたものを、『宇塊記抄』といいます。その他にも頼長は、儀式に関する詳しい記事を、他の公卿も当時よくやったように別記として残しております。そういうものを集めたものがこの史料大成本で、三冊になっております。ところがこれでも校訂が不完全ですので、この頃『史料纂集』という叢書で、先ほど申しました橋本義彦さんが活字本を作り始められたのですが、現在では第一冊しか出ておりません。
さて『台記』の読書リストはどんなものかと申しますと、康治二年九月三十日の条に、頼長二十四歳の時ですが、今日までに見及ぶところ一千三十巻のリストをここに書いておく、そしてこれから後は、毎年十二月の晦日に、その年に読んだ本を書きとめることにすると、こういうふうに書いてあるのです。そして一千三十巻の書名をズラリと並べて、それをどの年に読んだかということも書き付けてございます。

最初に「経家三百六十二巻」、これは尚書、周礼、儀礼、礼記、春秋の三伝、論語、孟子から老子、荘子などに至るまで三百六十二巻が列挙されてあります。次は「史家」つまり歴史です、これが三百二十六巻。史記、漢書、後漢書以下、新唐書に至るまで、三百二十六巻を読んだと書いてあります。
その次は「雑家」が三百四十二巻、その中には蒙求を始めとして、帝範とか荊楚歳時記のようなものに至るまで、いろいろございます。更にこの一千三十巻のほかに、「儲載百三十八巻」という躍大な百科事典も読破しているのです。この大事典を丸暗記しようとして、いかになんでもと言って引き留められたことも、『台記』に書いてあります。
この読書リストを見ますと、頼長は十七、八歳の時から学聞に志しております。最初は当時の普通のやり方に従って、文章道の典籍である史書を専ら読んでいたのですが、やがて二十歳を過ぎたころから、経学に全力を集中して行く。その後毎年末に読んだ書物のリストを書くという決心も、四、五年聞きちょうめんに実行しております。
好学の頼長はまた非常な蔵書家でありまして、博多に来た宋船などから書物が届けられますと、大喜びしております。それから、その蔵書を保存するための書庫も建てておりますがその室百庫の有様を一万す天養二年四月二日のところには、「文倉」のたてよこの大きさ、それから囲にり築垣があるとか防火用の池があるとか、そういった規模をずっと記Lてあります。十四日には、吉日を選んでその書庫の使い初めの行事をやったことも記されているのです。これで頼長の勉学ぶりの一端を示したつもりでございます。この他にたとえば老子とか易とか、いろいろな書物を講義していますし、彼の先生とか学友とか、そういう人々の名前も『台記』にたくさん出て参ります。

ところが頼長は学問に没頭して碩学の生涯に徹するわけにはいかなかった。と申しますのは、たとえ嫡男ではないとはいえ摂関家の公達であったために、当然政治の世界に深入りしていかなければならないわけです。その場合に、なまじ時流とかけ離れた経学の教養があるものですから、それを尺度としての他人の言動や政治への批判が、とび離れて厳格にならざるをえなかった、この事が頼長の後年の悲劇にふかく関係してくるのです。
そうした点を覗いて見ますと、史料の四番目は康治元年四月二十八日の条ですが、それは康治と改元された時の記事です。

二十八日辛卯。今日改元有りと云々。康治なり。これを案ずるに、康治の威は飢なり。若じ治に労せば音の反は忌なり。

「康」という字のkと「治」の母音のi、これをつなげばkiになります。つまり康治はこれを反切(二つの漢字で一つの字の音を一示す方法)とすると、kiつまり「飢」とか「忌」になるというのです。
ですから「康治」という年号はひどく縁起が悪い。そして、なぜそうかという理由を、さらに彼は説明して、「春秋」の穀梁伝を引くのです。

又穀梁伝の昭二十一年に誌く、大いに饑うと。伝に云く、一穀みのらざる、これを嗛と云ふ。
二穀みのらざる、これを饑と云ふ。三穀みのらざる、これを饉と云ふ。四穀みのらざる、これを康と云ふ。康は虚なり。五穀みのらざる、これを大侵と云ふと。

すなわち康というのは五穀の内の四穀が実らないことで、機謹よりももいうのである、故に「康は虚なり」と説明しております。さらにこうも書いています、「今案ずるに、康治の二字皆水に従ふ」。康も治も文字の中には水という字が入っているから、「然れば則ち水災を以て機謹あるべきの象なり」、雨が多すぎて、不作になるぞ。こういう風に頼長は得意の経学を駆使して、康治という新しい年号をぼろくそに叩いているわけです。
頼長は後日この事を出席者の一人に聞いてみたのですが、「参入の卿相更に比の事を申さず家の誠亡宣に宜ベならう返答であった。そこで、

官に在りては宜しく能を使ふベし。今の卿土は皆以って経史を学ばず、国家の誠亡宣に宜ベならずや。

これはいかにも頼長らしい痛烈な批評です。政府は能力ある者を用いるべきなのに、今の公卿連中はみんな不勉強だ、これでは国家の滅亡も当然ではないか、こう言っております。
こういう痛烈な批評の背景には、どうやら頼長の才学を兄忠通が十分認識していないということへの不平不満があったようです。そのいきさつはこうです。

摂政〈忠通〉命じて云く、「今日改元・国郡卜定等の事有るベし。改元においては、不参も何事か有らんや、国郡ト定は大納言肌どなるの例慨しからず、疾を撚けて参るベし」てへり。余固辞し了んぬ。

兄忠通の命令は、改元と国郡ト定(大者会の悠紀・主基の国郡を定めること〉の二行事がある、改元には出席しなくてもいいが、国郡卜定に内大臣の頼長が出席しないと、大納言が議長として行事をやらなければならない、それではよろしくないから病いをおしてやって来い。」ういう命令ですが、頼長はこれにカチンと来て欠席したのです。頼長にいわせると、改元には自分は一家言を持っているから、しいて来てくれと言われれば行かぬこともない。しかるに国郡ト定に大納言が議長になる例がないから出て来いと言うのは、自分の能力を尊重して出席してくれと言うのではなく、てただ地位が高いからというだけではないか。そんな命令にどうして従えるか、というのであります。そして最後にこうあざけります、今日の改元定めの卿相、犬馬に異らざるものなり」。このへんがいかにも頼長らしいでしょう。

それから史料の五番目康治二年十月二十三日の条、これは父忠実の天王寺詣に随行した記事です。
そこに聖徳太子の御鉛日いわれるものがありまして、それをお守りとして、一聞が少しずつ分けていただいた。ところが頼長は、お寺のものを盗み取るということは破戒である、そんなことはできない、といって独りこれを拒絶した。
身を持することが非常に厳しいのです。自分に対して厳しいのですから、当然他人に対しても褒毘ともに容赦しないのであります。その例を、一つ二つ。
まず史料六番目の康治元年三月十五日の条。『台記』の中でも有名な記事です。何故有名か ますと、西行法師の伝記上欠くべからざるものだからで、先ほご紹介にあずかりました私の小さな研究でも、大いに役立てました。

十五日戊申。侍共をして弓を射しむ。西行法師来たりて云く、「一品経を行ふに依りて、両院以下の貴所皆下し給ふな。料紙の美悪を嫌はず、只自筆を用ふベし」と、予、不軽承諾す。

侍どもに弓を訓練しているところへ西行法師という者が一品経の勧進にやって来た。一品経とは、法華経二十八口聞の一口問ずつを写し、供養料を添えて寺に寄進することです。両院というのは鳥羽法皇と待賢門院です。この両院以下が皆お引き受けになったから、紙はどうでも良いけれども、ただ必ず自筆でお書きいただきたい、こういって西行が頼んだ。そこで自分は不軽口問を書くことを承諾したというのです。実はこの「不軽承諾す」の所は、以前はこれを「余軽がるしく承諾せず」と、勧進を断ったように訓んでいたのですが、東京国立博物館の小松茂美さんが、そうではなくて、不軽というのは法華経の不軽品である、不軽口聞を写することを承諾したのであると訂正されました。古記録を読むのもむずかしいのでありまして、読み損うと、イエスとノーが逆になってしまうわけです。ともかく頼長は写経を承諾した。その折頼長はいたく西行に興味を催したと見えまして、

又余、念を問ふ。 答へて日く二十五。去々年出家、二十三。抑も西行はもと兵衛尉義清なり。左衛門大夫康清の子。重代の勇士を以て法皇に仕ふ。俗時より心を仏道に入れ、家富み年若く、心に愁なきも、遂に以て遁世す。人これを嘆美するなり。

『西行物一昔巴などに伝えられるあの有名な遁世の時、西行が二十三歳だったことがこれで分かります。自分と二つしか年の違わない若者の、そうした決然たる行動に対して、頼長がほとほと感じ入ったということも、この記事によって分かるわけです。
こういう讃美をする反面に、他人の悪口もいろいろ書いています。出家前の西行は、頼長の妻の里方徳大寺家に仕えていたのですが、この家から出た待賢門院とか、その生んだ崇徳院とか、そういう人に頼長は親しい気持ちを持つ一方、待賢門院のライバル美福門院周辺の人々をひどく軽蔑し憎悪しておりまして、酷評が『台記』に俸りもなく書かれています。借上の沙汰であるとか、率官修も甚しいとか、いろいろやっております。
そういう褒貶のきびしさもさることながら、時には奇想天外と申しますか、むしろゾッとするような行動も見られるので、その代表的なのが史料七番目の天養二年十二月十七日の条です。

今夜不祥の雲あり。召使国貞を殺すところの庁の下部、去んぬる七日非常赦にて免ぜらる。今夜件の下部殺さると云々。

召使というのは太政官の役人ですが、召使の国貞という男が前に殺された。ところが犯人は去る七日の非常赦で放免されてしまったのだが、今夜その男が何者かに殺されたそうだ。そういう記事です。続いて次のように書きます。

国貞忠を以て君につかふ。今其の仇の殺さるるは、天の然らしむるか。太政官の大慶なり。未だ何必の所為なるかを知らず、或ひは云く、国貞の子の召使の所為なりと云々。

国貞は非常に忠義な男であった。その仇が今殺されたというのは、これは天罰であろう。政府にとって大いに結構なことだが、誰がやったのか分からない。噂によると国貞の子供がやったということだ。ここまでが日記の本文ですが、その下の割注に、事の真相を頼長はみずから書いているのです。その割注はこうです。

其の実は、余、左近府生奉行春に命じて、之を殺さしむ。天に代りて之を設す。猶武王の約を訣するがごときなり。人敢てこれを知ることなし。

これは大変なことで、真相は頼長が家来に命じて、この男を殺させたんだというのです。そして頼長は天に代ってあれを殺したのだと昂然と言い放ち、この殺人を周の武王が暴逆な肢の紂王を討った行為に匹敵する正義だと誇っているわけです。しかも完全犯罪だと得意然として書き付けています。こういう、暗殺と申しますか、殺人と申しますか、そんな事実をあけすけに書いた日記は他にあまりないでしょう。このあたりに、いかにも頼長という人の「悪左府」といわれた人柄がよく出ていると思います。
そういう思い切ったことをやるだけあって、頼長は体力も抜群でした。三メートルも五メートルもある巨大な雪の山を、食事も抜きで作ったなどという体験も、『台記』に書かれております。それからまた、酒色を戒しむなどとも言っておりまして、たしかに女性関係は派手ではなかったのですが、男色はたいへんお得意で、その記事が『台記』の中に頻出しております。これは東野治之さんという方が「日記に見る藤原頼長の男色関係」という異色ある論文をヒストリアという雑誌の八四号に書いておられます。これはごく真面目な論文で、頼長の私生活の一面を知ることが出来るので、それに譲ります。

実は一番感動的な場面として、くわしく申し上げたかったのは、高階通憲と頼長の交友であります。高階通憲とは、かの有名な少納言入道信西のことです。この信西も「学生抜群の者」と『愚管抄』に書かれております。頼長よりは十四歳年長で、しかも奇しくも保元の乱では頼長と真向から対立し、そして数年後には平治の乱で、保元の乱の頼長と同じような非業の最期を遂げてしまう。いろんな意味で頼長と双壁を以って目すべき人物ですが、この通憲と頼長の聞には、破局に至る以前、頼長が学聞に励んでいた青年期に、きわめて密接な交わりがございました。それは『台記』の中に実にしばしば出て来ます。頼長は通憲から易を学び、その点については通憲を師と仰いでいるのです。二つだけ史料を読んで、他はご想像いただくことにしますので、その時聞を館からお許し頂きたいと思います。まず史料の九番目です。
康治二年八月四日の条ですが、通憲がいよいよ出家する決心をして、この時は結局中止するのですが、そのことについての記事です。

夜に入りて、資賢朝臣語りて云く、日向の前司通憲、来る二十五日出家すベし。既に院奏を経て、暇を給はりおはんぬ。法皇顕頼卿に仰せ合はす。申して云く、「天下の才子これに如くはなし、庶幾くは許すことなかれ」と。

通憲が出家申請の手続きを取った。これに対して、鳥羽法皇がどうしたものかと側近の藤原顕頼に伸せられたところ、顕頼が「彼ほどの才土はありません。どうか出家を許さないでいただきたい」と言ったというのです。このことを耳にした頼長は、あくる日家司を使として通憲の亭に遣わし、自分の考えを述べています。

山城前吏をして日州前吏通憲に伝へしめて日く、貴下遁世の由これを聞けり。貴下の為には現世資けず、後世菩提を得。専ら益あらんo朝としては耽となす。其の故は、其の才を以て顕官に居らず、すでに以て遁世す。才世に余りあり、世これを尊ばず。是れ天の我が国を亡ぼすなり。

出家はあなたにはプラスであろうが、朝廷め耽である、すぐれた才能を尊重しないのは亡国のしるしであろう。こう言って、その遁世を惜しんでいるわけです。さらに十一日のところを見ますと、

夜に入り、通憲に逢ひて、相共に突す。通憲をして箆を吹かしむ。帰らんと欲するに、余に命じて云く、臣、運の拙なきを以て一職を帯せず、すでに以って遁世す。人定めて以って才の高きを以って天これを亡ぼすとなし、いよいよ学を廃せん。願はくは股下廃することなかれと。余日く、よし、敢て命を忘れじと。涙数行下る。

通憲を訪ねて共に泣いたのです。そして頼長が帰ろうとしたところ、通憲は次のように言った。自分は不幸にして政府の枢要な官職に就くことができずに遁世する。そこで世の中の人は「才の高きを以って天これを亡ぼす」と思い、いよしγよ学閣を廃するであろう、どうか殿下だけは廃してくださるな。頼長は感激して、一艇を流したというのであります。まことにうるわしい場面です。信西は遁世に当たって、頼長に彼の学聞を継ぐことを依嘱しているわけです。
その時には、実は信西は遁世を取り止めました。それから頼長は一所懸命に易を信西に学びます。そして二年ほどで頼長の易に対する知識は急速に進んで、信西と論争までするようになって行きます。信西をちょっとやり込めたりするのです。史料八番目の天養二年六月七日の条ですが、「通憲答へて云く、小僧の誤りなり、罪謝するところを知らず」、と信西は自説の非を認めます。それからが注意すべきところですが、

又日く、閤下の才千古に恥ぢず、漢朝を訪ふに又比類少なし。既に我朝中古の先達を超ゆ。その才の我国に過ぐるは、深く危催するところなり。今より以後、経典を学ぶことなかれと。

信西はこう言っているのです。あなたの才能は小さな我が固に過ぎたものであることを、私は深くおそれ、あやぶむ、もうこれからは経学を学ぶことはおよしなさいと。つまり、先ほどの史料で言つたことと正反対のことを、信西はここで忠告したわけです。頼長はそれに対して、「余答へず、心に栄となす」、心の中で光栄に思ったと言っております。自信家の頼長はこの言葉を単なる讃辞と受け止めたのですが、信西の忠告は政治家頼長の将来に対する深刻な憂慮からだったのでしょう。私はこのわずか二年しかへだたっていないこつの記事を対照して、信西の頼長に対する観方の変化が、実におもしろいと思うのです。果たせるかな、これから頼長は急速に政治的孤立に追い込まれていくわけです、そして最後はご承知のような破局におちいります。信西も才学余り有る故に世に容れられなかった人ですが、頼長はその点をもっと悲劇的に体験しなければならなかったということであります。
『台記』を読んでおりますと、頼長の型破りな人柄と、それによって彼が破局に追いつめられて行くドラマチックな生涯と、その二つが、あざやかに出て参ります。そこが、当時の日記としては実に異色ある点で、直接お読みいただくならば、他の日記を読むのと一味違った興趣を覚えられるのではないかと思います。どうも急ぎまして、それも五分超過いたしました。これでおしまいにします。