見つけそこねた史実

伝説の旅人として、また愛唱すべき歌人としての西行は有名であるが、中世の思想・文化をになった遁世者の典型としての実体を歴史的にとらえることは、未開拓といってよい。そこでこの数年、関心をよせて来た。
あるひまな日に、『除目申文抄』というものを何とはなしに見ていたら、平安末期の「申文」(任官の申請書〉の中に、「藤原義清丸」が「内舎人」になりたいと申請しているのが見つかった。これはまさしく十五歳の西行が官界に船出しようとした形跡だが、何にせよ和歌にも仏教にも縁のない法制史料のこととて、従来だれの眼にも触れなかったものらしい。もっとも、」の時義清の希望は通らなかったらしく、別人が任官した。
この発見はまぐれ当たりというか、怪我の功名というか、ともかく学会で報告した。西行はその後「兵衛尉」になったのだが、その任官年時は不明であると論文に書いたところ、篤学の若い研究者から来信があって、『長秋記』のおしまい
の辺に「康清の子」を兵衛尉に任じたとが、これは西行の事ではないかと教えられた。全くそのとおりで、康清とは西行の父なのである〈大から、この公家日記の記事は、歳の西行が鳥羽法皇建立の御堂「勝光明院」の造営費用を献上することを代償として、首尾よく兵衛尉にありついた証拠である。
私はおおいに感謝したが、それにしても『長秋記』は調べたはずなのに、なぜ見落としたのかと、書物を取り出してみた。問題の個所の二、三ページ前に、「4/23」とメモした紙片がはさんである。たぶん某年四月二十三日ここまで読み、あと数頁で読了するところでなにか邪魔が入って中断したのだが、論文執筆の時には、すでに調べおわったものと思い込んだのであろう。宝はその鼻先にもれていたのである。

私などの学聞は高次元な議論とは無関係で、こんな些末な事実の詮索に明け暮れて、一喜一憂しているだけの事である。