求道遍歴の人

かれこれ四十年前、ひとりの少年が旧制最後の新潟高等学校に入学した。入寮した時、上級生の寮長に問いかけられる、「何のためにここに入ってきたのか、諸君の考えを聞きたい」と。何のために?何となく親に甘えてきた受験生の諸君が、責任ある自分自身をもう一度生み直す、「再誕」の場所がここなんだぞと言われて、少年は目のウロコが落ちたような衝撃をうける。そこから『求道遍歴』(法蔵選書)の著者の、長い「求道遍歴」がはじまった。
旧制高校の三年間、いかに生くべきかを求めて哲学や文学に悪戦苦闘し、解決しえないまま京都大学に進んだ青年は、ふと思い立って比叡山にのぼる。茶店の老人に教えられて門を叩いた無動寺で、千日回峰行をした高僧にめぐり会う。周囲の危ぶみ止めるのを押し切って出家し、当時、ほとんど廃絶していた「十二年龍山」の行に入る。意志と体力の極限を行く修行がつづいた。
十二年の行の終わるころ、湿気の多い山の生活に肉体を痛めつけられていた著者は、ヨーガ指導者の佐保田鶴治阪大教授にめぐり会う。著者の学んでいた天台の止観行のルーツは、ヨーガである。その修行を志してインドに渡ったが、やがて仏跡巡礼の旅に出る。そして聖地一フージギル(王舎城)の地で、山上に世界平和の大塔を建立しつつある日本山妙法寺の上人たちにめぐり会う。炎熱のもとで建設工事の人夫として奉仕した後、九歳のインド少年を連れて帰国する。少年はインドで最下層にしいたげられている不可触民の子であった。
その後十余年、著者堀沢祖門師はいま比叡山の居士林所長として、みずから編み出した独特の禅法を在家の人びとに教え、たくましく成長したサンガ少年は、仏教発祥の故国に仏教を復興するために、帰って行こうとしている。
この書物は、こうした求道と出会いの、すがすがしい半生の記録である。大正大学の石上善応教授との対談による行の回顧、短歌雑誌に寄稿したインド通信、企業や信徒への講話を集めたものである。青春の聞いを生涯持ちつづけ、しかも超人的な「行」によって解決を求めた点で、著者が現代に問いかけるものは限りなく重いが、書物はこれを無造作に、気楽に、時にはユーモラスに語り、読者は著者の慈眼に対面するような思いがすると思う。
私は敗戦直後に郷里で新米教師となり、海軍兵学校から復員して来た少年の著者と避遁した。世俗的な意味では私が師であろうが、実はその後四十年、私は著者のひたむきな求道に、たえず強い精神的刺戟を受けつづけた。語の深い意味では、著者こそ私の師であった。弟子を師とするとは、得がたい人生の幸せではあるまいか。
ところで、半生を「行」に専念してきた祖門師の、このはじめての著作を世に送り出したのは、若い編集者美谷克美氏であるが、氏はいま富山県の豪雪地帯の過疎の村に、妻子ともども移り住んでいる。大工に弟子入りして廃屋を修理改造し、山に入って炭を焼き、無農薬の米作りをする暮しを始めている。これはあたかも、もう一つの「龍山行」であろう。
数年前、ある企画で数度陣屋を訪ねてくれた際、談たまたま祖門師に及んだところから、氏の叡山への訪問がはじまり、ついに祖門師に重い腰を上げさせたのであった。この本の上梓を最後に退社するという言葉をチラと聞いてはいたが、まさかこういう龍山行に入るとは凡慮の及ぶところではなかった。
東大の仏文出身で、十年間仏蘭西ならぬ仏教書の出版に従事した美谷氏は、文字だけで仏教を理解しようとする「自家中毒症状」を断ちきろうとし、また「総中流意識の一億分の一」たることを拒否したのである。その「求道遍歴」のすがたは私に、親驚が景慕してやまなかった賀古の沙弥教信(二八頁参照〉の生活を連想させる。
祖門師はいま、叡山から毎月一回郷里の新潟県へ通って法華経を講じている。その道中で、折々美谷氏との交流があるようである。人の「寵山行者」の交わりの中から、将来何が育まれて来るのであろうか。