歴史学者と短歌

何年か前に、国立歴史民俗博物館の展示計画に加わることになり、月に一度くらいずつ佐倉通いをした。その項、私は「短歌」誌に「百人一首の作者たち」を連載させてもらっていた。ある日館長の井上光貞氏に、「きみの連載、おもしろく読んでるよ」と言われ、不意を突かれた。年来「短歌」の購読者だということで、まことに意外に思った。
そういえば、井上さんの退官記念にもらった『東大三十余年』の巻末には「短歌三十五首」が収められ、うち二十首は「求めに応じて、講談社版、昭和高葉集に投じたもの」という注記があった。その後書かれた自伝『わたくしの古代史学』にも、そこここに自作が入っていたが、正直にいえば私はそれらをほとんど眼に止めていなかった。そのわけは、どの本の場合も中に記された論文ないし研究回顧が圧倒的な迫力を持っていたからで、いわばサシミのツマにまで隈をくばる心理的余裕を与」えられなかったからである。

昨年の二月井上さんが、十日余に迫った歴博開館を前にして、明子夫人のことばを借りれば「竜に乗り、大地をゆるがして空に登った様に」急逝してから、早くも一年が経ち、一周忌の供養に一巻の家集が編まれた。題しで『冬の海』。五部立てで約五二O首を収めるが、実際には第一部「若き日の歌のかずかず」と第二部「冬の海」以下の聞に二十余年の中断があるから、青春の作と晩年の作の二部から成るといってよかろう。
『昭和高葉集』の編集者が井上さんに投稿を求めたきっかけについて、私は講談社の旧友N氏をわずらわして探ってみたが、目下まだ定かではない。二十首のうちから採録された五首は、『冬の海』の中でもやはりよい。

十二月八日午前十時の録音にて九龍へ向ふ兵の靴音 (昭和十六年)
眼の限り青き麦生の一ところげんげ田あるを妻の指さす (同十八年)
障子よりさせるタつ陽明々と蒼き先生の御顔にぞ映ゆ 和辻先生 (同年)
妻の中に醒めそめける新しき命を吾児と呼ばむ日待たる (同十九年)
紛争は遠くなりけり並木路にけさ朝需のたちわたりたる (同四十四年)

右の第四首までと第五首の聞には、四分の一世紀の空白がある。その聞に日本古代史の研究は長足の進歩をし、井上さんは自他共に許す牽引車であった。井上さんにも私にも恩師である坂本太郎先生の言を借りれば、「あの精密機械のような堅固で敏密な論文」が量産された期間、歌作は中断されていたのである。それ以前の戦争と療養生活から生まれた歌作が復活するのは、「紛争は」の作が端的に語るように、大学紛争に続く大病を機としてであった。
『冬の海』一巻を通読して、不遜ないい方を許してもらえば、私は井上さんの打ち込み方と力量を見直さざるを得なかった。無論私に短歌の批評力があるはずもないから、そんな者に褒められても故人は苦笑されるだろうが、何よりも作者の心のたけがまことに正直に出ていることに感心した。感動はその一点に尽きる。

国民の良識舵をあやまらず安定えらび自民党勝つ (昭和五十五年)
名門のコンプレックスならむ日本一の学者たらむと母に誓ひぬ (同)

いかな私とて、これらを佳作とするわけではない。むしろ集中最もレベルの低いものと思うが、その中に心境がいともあけすけに吐き出されている所が面白いのだ。あの天才学者が歌壇の時外でこんな作を書きつけていたという事実を、かの王朝貴族にとって和歌が「米の飯」のような必需品であったという持論と重ね合わせてみる面白さといってもよい。

ところで、戦後の古代史学のリーダーとして東の井上さんと並ぶ西の学者に、直木孝次郎氏がいる。

直木さんも四年ほど前、還暦の自祝に『山鳩集』と題する家集を編まれた。題名は昭和十五年に北海道を旅した時の作、

旅十日今日も山行く淋しさを耐へつつあるに山鳩の暗く

から命名された。短歌二百余首、長歌一首、詩二編。右の一首に牧水への心酔の志向を看取することは容易であろう。直木さんの歌作も、旧制一高生から予備学生を経て敗戦直後までと、二十年余り後朝鮮・中国への旅で復活した後とに分かれている。その中断の聞に大量の論文が蓄積されたこと、井上さんと同様である。
直木さんは「あとがき」に、「読んで下さる方にはご迷惑でも、一度はかういふ本を作りたかったのである」と記し、私は「言ふならば文学青年崩れである」と白期された。この所感は、同じく還暦を機として私家版の句文集『散木抄』を編んだ私には、身にしみて共感される。井上さんの『冬の海』も、刊行を期して、和綴の和紙に丹念に記されてあったのだという(植木正三氏の政〉。
その昔の高回保馬・南原繁、いまの所三男氏らを引き合いに出すまでもなく、こうした例は意外に多くあるのかも知れない。平泉澄先生は長歌・短歌を詠まれたし、坂本先生も毎年の賀状にかならず歌を記される。しかし現代の「短歌」というものは、それらと全く無関係な所で、おそろしく専門的に制作され享受されているのである。多分それだからこそ、文学的・芸術的たり得ているのだが、私のように王朝の「作者」(あえて「歌人」と限定的に呼ばない)の腰折れとも見られていたものに早くから関心を寄せ、文化史の史料として利用して来たつむじ曲がりには、現代の非歌人の実作にも輿味をいだかざるを得ない。その種のものを発掘するのは、ゲテモノ趣味となるのであろうか。しかし、「生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける」と古人はいった。井上光貞氏の遺作に感銘した勢いで、勝手な感想を書いた。