螢からの手紙

ぬのこ 一 此度御
返申侯
さむくなりぬ
いまハ壁も光
なし こ金の
水をたれか
たまはむ
     螢
閑難都起
――――――――
およしさ ほたる

山田屋

これはほぼ二百二、三十通現存しているという良寛の手紙の一通である。拝啓のぶれば的な、固苦しい決り文句をめったに用いない、奔放自在な良寛書状の中でも、ことにくだけた一通である。良覚は「壁」と名乗っている。宛名の「およしさ」という女性は、脇に記された「山田屋」という家の女中さんか何かであった。その人から借りてもどった「ぬのこ」――もめんの綿入を返すにつけて、一首の歌をそえた。寒くなって光る元気もないこの壁に、「こ金の水」を恵んで下さいというのだ。「金」という漢字の右の「かね」というルピは、良寛自身が振ったもの。ご丁寧にルピを振ったのは、これが相手に読めなくては目的が達せられぬからで、その目的というのは「こ金の水」つまりお酒の無心である。
二百何十通かの良寛書状には、物を恵まれた人への礼状が圧倒的に多い。米、餅、みそ、油、山菜、野菜、梅干、納豆、茶、菓子の類、ふとん、ぬのこ、蚊帳の類、筆、紙、墨の類など、一物も貯えぬ草庵生活者の境涯がしのばれる。しかし、淡々と無欲に徹して、

焚くほどは風が持て来る落葉かな

と詠んだ良寛のこととて、無心の手紙は礼状に比べてまことに少ない。
『良寛の書簡』(BSN新潟放送刊)に寄せた一文の中で吉野秀雄氏は、「良寛は物をねだったが、それは最低生活の必需品であるのを常とする」といい、「白雪議」という落雁様の菓子くらいが、やや賛沢といえばいえるもので、これを限界として「酒とか煙草とかをねだった手紙はいまだ一通も見たことがない」と書いている。吉野さんに異を立てるわけではないが、「およしさ」に「こ金の水」をねだったのは、無欲な良寛も時には酒の無心に及ぶことのあった例証である。そんなことが出来たのは、この女性が良寛を「壁」などと仇名で呼ぶ、気の置けない人柄であり、気楽な間柄だったからであろう。

「――さ」という敬称は、.良寛の住んでいた中越地方での常用語である。「――さま」でも「――さん」でもない、「――さ」である。良寛も「良寛さ」と呼ばれていた。実は私の母も淑(よし)という名なので、嫁入り前には「およしさ」と呼ばれたようで、私は少年時代に伯母などがそう呼ぶのを聞いた記憶がある。それで何の理由もなく、私はこの山田屋の「およしさ」に母のおもかげを重ね合わせたくなる。

この文を書こうとしている所へ、まことにタイミングよく谷川敏朗著『良寛の旅』(恒文社刊〉という小冊子がとどいた。写真をふんだんに入れて、島崎・与板・出雲崎・寺泊・国上などから、若き日の良寛が修行した倉敷市の円通寺その他まで、遺跡を手際よく案内してくれる。そこで、とりあえずこの本を受け売りするが、山田家は長岡からパス一時間ほどの与板町の素封家であった。村役を勤め沼造を営み、当主は杜皐と号する風流人であった。
良寛は折々山田家を訪れ、「およしさ」を含めて家族に歓待されたようで、杜由平にあてた書簡は多くのこっている。「およしさ」が「ほたる」と仇名したのは、良寛が托鉢の帰り、日暮れに立ち寄っては、疲れを少量の潜にいやして生き生きと帰途についたからでもあったか。これは私の想像である。

のどかな一幅の絵であるが、良寛はそうのんびりした一面だけを見せてくれる人ではない。山田杜白半に宛てたもう一通の手紙を例に引こう。

地しんは信に大変に候。野僧草庵ハ何事なく、親るい中、死人もなく、めで度存候。
うちつけにしなばしなずてながらへて
かゝるうきめを見るがはびしさ
しかし、災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるム妙法にて候。

かしこ

臘 八
山田杜皐老
与板

良寛

これは文政十(一八二八〉年十二月八日付の手紙である。前月の十二日、与板にすぐ近い三条を震源地とする直下型大地震が起こった。被災地は与板・出雲崎など十里四方に及び、千数百戸が壊れたり焼けたりし、二百余人の死者を出した。良寛はこの年七十一歳。すでに国上山の五合庵を降りて、与板の隣村島崎の素封家木村家の邸内に、老の身を寄せていた。
山田家も良寛の草庵も大揺れに揺れ、命を落した人も近くにいたようである。良寛はまず自身の無事を告げ、ながらえてこんな憂き目を見たことを悲しんだが、「しかし」として胸をえぐるような語を書き付けた。災難に逢う「時節」には逢うがよく、死ぬ「時節」には死ぬがよいのだ、これが災難をのがれる「妙法」であると。
この語を、たとえば当時の被災者たちが耳にしたら何といったろうか。あるいは現代のヒューマニストや社会福祉家が耳にしたら何というだろうか。聞きようによっては、冷酷無残とも無神経とも取られかねない。さすがに良寛にしても、たとえば三条のある寺の老僧に宛てた手紙などでは、安否を尋ねて型のごとく神妙な言を連ねている。だから、「しかし」以下は、杜皐という特別に心許した人だからこそ洩らした本音なのであろう。
眼のあたり惨状を見て、禅僧良寛は本来の面白に立たざるを得なかった。「災難に遭時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候」とは、修行によって得た平常心である。強がりでもなく、惨事から眼をそむけるのでもない。古稀を越えた良寛の自然法爾の心境の、淡々たる告白である。「自然法爾」は親驚の晩年の有名な法語だが、良寛にもこの四字を記した書跡がある。

それにしても、手紙の受取人はこれをどう読んだか。与板の被害もひどかったようで、名望家で資産家の山田家は被災者・窮民の救済に忙殺されていたと思われる。良寛の透徹した禅機に感銘する余裕は、はたしてあったかどうか。もしかしたら杜皐も「およしさ」も、「やれやれ、まあ、良寛さは――」と、あきれた表情を浮かべたかも知れない。